第六話「誘惑の影」連載小説「奪われるースパイ天国・日本の敗戦ー」

 スパイ防止法がないこの“天国”・日本で、知らない間に国が「奪われる」──。

 表向きの歴史やニュースの裏側に潜む、冷酷な国際諜報戦と、個人の運命が国家間の巨大な陰謀に巻き込まれていく壮大な安全保障サスペンス小説、ここに爆誕。


 舞台は、女性初の内閣総理大臣・高地きみえが熱狂的な支持を背景に「強い日本」を目指す日本。彼女は長年の懸案である日本人拉致被害者の奪還を決意し、極秘裏に北朝鮮の金正恩総書記との会談に臨む。しかし、その外交交渉の裏側では、すでに北朝鮮の体制に「影」が差し込み、巨大な隣国・中国の思惑が絡み合っていた。

第六話「誘惑の影」

 東京大学理学部を卒業した山田浩一は、上場している大手電機メーカーの研究者として淡々とした日々を送っていた。40代半ばの彼は電磁波の応用技術を専門にしている。4年前に乳ガンで妻を失った後、中学生となった娘の明里と2人で暮らしていた。東京・江東区にある築34年の賃貸マンションに住み、職場から40分ほど満員電車に揺られて戻ると、バスケットボール部に入った明里の晩ご飯を急いで準備するのがルーティンだった。

 「じゃあ、行ってきまーす!」。毎朝、元気よく玄関を飛び出していく明里の姿が浩一の疲れを癒やす。給料は手取りで月50万円ほど。2人だけの生活で不便を感じたことはない。ただ、これから高校や大学に進んでいく娘の将来を思うと、いつも胸がざわついた。

 ある晩、自宅のラップトップを開いた浩一は、メールの受信ボックスに見慣れない差出人からメッセージが届いていることに気がついた。送信元は「グローバル・テクノロジー・ラボ(GTL)」と書かれている。添えられたURLをクリックすると、韓国の有名企業の公式サイトが現われた。浩一の研究を評価し、ヘッドハンティングのオファーを示している。

 「年収は現在の5倍は保証します」「勤務地は東京にある弊社の研究所です」。浩一はメールを読み進めると、心臓の鼓動が速くなるのを感じた。「これは本当の話なのか? それとも単なる詐欺メールか?」。韓国の企業だからといって、韓国で働くわけではない。年収は一気に5倍以上になる。かつては「神童」と言われながら、今はどこにでもいるような研究者として平凡な生活を送る浩一の心が激しく揺れる。

 いつものように晩ご飯を食べながら、明里に聞いてみることにした。2人だけの生活は情報の共有も欠かせない。年頃の明里が思春期を迎えても反抗心がないのは、こうした浩一の考えによる部分も大きい。明里は目を輝かせた。「お父さん、このオファーを受けたら、私たちの生活が変わるよ! 私、実は米国に留学したいと思っていたんだよね」。浩一は仏壇に手を合わせ、亡き妻にも報告する。「でもさ、ちょっと良い話すぎて不気味じゃない?」。明里は前向きだった。「全然! それだけ、お父さんのことを評価しているってこと。やってみたら良いじゃない。お母さんも同じことを言うと思うよ。チャンスはもう来ないかもしれないし」。浩一に迷いはなくなった。

 申請フォームでオファーを受け入れることを伝えると、すぐにGTL社担当者との面接がセットされた。初めて転職に向けて動く自分に緊張は隠せない。東京・新橋にあるビルの一室に案内された浩一は、妻や明里との歩みを振り返っていた。「明里も大きくなってきた。そろそろ、俺も自分の人生を楽しんで良いよな・・・」。転職するリスクへの不安と、研究者として可能性を広げたい野心が交錯する。

 コーヒーが入った紙コップを2つ持ちながら現われた面接官は、「キム」と名乗った。GTL社の日本支社幹部であるといい、柔らかい微笑みを浮かべている。「私たちは、あなたの才能を必要としている」と告げてきた。

 キムはスーツケースのような大きなバッグから資料を取り出すと、テーブルに広げた。壁一面に投影された映像が切り替わり、韓国の最先端研究所の内部が鮮やかに映し出される。「こちらが現在進行中のプロジェクトです」。画面には無数の光点が星座のように散りばめられていた。浩一が息を飲む。それは彼が長年研究してきた「電磁波」の応用を実践するための計画そのものと言えた。

 「あなたなら、このプロジェクトを完成できると確信しています」。キムが静かに言った。「我々には必要なものがすべてある。資金も施設も、そして何よりも・・・」。キムの目が浩一の瞳を捉える。「あなたの持つ情熱を解き放つ環境があります」。浩一は指がかすかに震えるのを感じた。妻の病床で握った、あの時の手のように。しかし、今度は冷たさではなく、熱いものが体を駆け巡っていた。

 面接の帰り道、スマホの画面にLINE通知があることに気がついた。「お父さん、ホントにすごい! 明里は今日のテスト100点だったよ!」。娘からの嬉しいメッセージに頬が緩む。電車の窓に映った自分の顔がいつもの疲れ切ったものではなく、別人のように見えた。

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