500万円でパン屋を買った元IT会社員…サラリーマンの常識が斬新な概念になる 「感情の絶対値が増える毎日です」
三戸政和氏の著書『サラリーマンは300万円で小さな会社を買いなさい』(講談社)が出版されたのは2018年のことだ。「大企業のビジネスパーソンとして身につけたスキルは、事業継承などにおいて大きな武器になる」と力説した同書は、働く人たちに新たな「選択肢」を提案し、シリーズ累計で20万部のベストセラーとなった。その一方で、素人に会社を買わせることを「詐欺的だ」と批判する声もあがった。
では実際に会社を買った人たちは今、どんな人生を歩んでいるのだろうか。
連載「300万円で小さな会社を買ったサラリーマンたち」では、事業継承者たちのその後を追う。第1回はパン屋を買った元IT企業勤務の男性だ――。
*本稿は三戸政和氏監修のもと、編集部でインタビューを実施したもの。
就職でも、起業でもない。選んだ第三の道
川崎市の生田駅近くにarc bakeryというベーカリーショップがある。
自家製クリームを詰め込んだクリームパンが好評で地域の人から愛されているお店だ。このarc bakeryのオーナーを務めているのが荒井大輔さんだ。実は、このベーカリーショップ、荒井さんがゼロから立ち上げた店舗ではない。
荒井さんは、事業承継によってarc bakeryを購入し、オーナーとしてこのショップを運営しているのだ。荒井さんはなぜarc bakeryのオーナーとなったのか。荒井さんが事業オーナーになるまでの経緯から探っていこう。
現在はarc bakeryのオーナーとして働いている荒井さんだが、もともとは大手IT企業で働く営業マンだった。
「入社1年目は学ぶことも多く、楽しみながら働くことができていました。しかし、2年目から違和感が生まれて『自分のやりたいことは違うことなのではないか』と思いはじめました」
そんな荒井さんが出会ったのが事業承継という選択。会社を辞めるにしても、転職や起業などさまざまな選択肢がある。その中で、なぜ荒井さんは事業承継をしようと思ったのだろうか。
「雇われて働くのはつらいと思っていたものの、だからといって自分で0から起業して何かを作り上げていきたいという気持ちがあったわけでもありません。そんな時に三戸政和さんの著書『サラリーマンは300万円で小さな会社を買いなさい』と出会いました」
「さらに、堀江貴文さんと三戸さんのYouTube動画を見て、『これだ!』と思ったのです」
事業承継であれば、すでにある程度完成している状態から事業をスタートすることができる。就職するでも、起業するでもない。
事業承継という第三の選択肢が荒井さんにとっては最適解だった。
「業種は問わず、まず事業オーナーとして働きたいという気持ちがありました。では何のオーナーがよいか? それを考えて自分の好きなものを仕事にしたいなと。自転車、クラフトビール、そしてパンと好きなものを並べて検討した結果、自分はベーカリーショップのオーナーになろうと決意したのです」
実際にパンを自分で作り、ビジネスを進めることに抵抗はなかったのだろうか。
「抵抗はなかったです。ほぼ未経験という状態から、現在に至るまでパン屋オーナーとして働いています」
事業承継の決め手は何だったのか
当然のことながら、ひとくちにベーカリーショップと言っても、数多くある。
荒井さんはどのようにして事業承継する店舗を選んだのだろうか。
「公的機関から情報をもらったり、自分でネットで探したりなどで事業承継させて頂けるベーカリーショップを探しました。そこで、実は誰かに引き継いでほしいと思っている店舗は少なくないことを知ったのです」
荒井さんが重要視したことのひとつに店舗の清潔さがある。
ベーカリーショップは、歴史のある店舗が多いため、店内環境があまりよくないということもあるという。
「正直なところ、arc bakeryよりも金銭面で条件がよい候補もありました。しかし、そちらの候補は年季が入っていてあまりきれいではありませんでした。最終的には自分の働きたい環境はどちらかを考えてarc bakeryに決めました」
こうしてM&A先を決めた荒井さん。前オーナーが別の仕事で収益をあげていたこともあり、話はとんとん拍子で進んでいったという。
手持ちは150万円のみで事業承継
「自己資金150万円と、地銀と政策金融公庫からの900万円の借り入れを元手として、arc bakeryのオーナーとしてのキャリアを歩み始めました。”会社を買った額” は約500万円です」
「オーナーになってまだ日は浅いですが、改めて買ってよかったと思っています。今は毎日arc bakeryのことを考えて年末年始の3日間以外は毎日お店に行っています。会社員として働いていた頃よりも充実感もあって幸せです」
充実した日々を送っている荒井さん。
そんな荒井さんは事業オーナーとして日々どのような仕事をしているのだろうか。
全ての責任が自分にある。それが喜び
「事業オーナーの仕事にはスタッフの体制を組み立てること、パン作りの仕組みを作ることがあります。これは開業前にした大きな仕事です」
arc bakeryは荒井さんが事業を承継する前から、ベーカリーショップとして積み重ねられた伝統と慣習がある。
この中から「残すもの」と「残さないもの」を取捨選択し、新オーナーとしての色を出していった。
「大きな変更点として挙げられるのは、製造のスタッフをほぼ入れ替えたこと。また、以前は週休2日でしたが、年末年始などの特別な日を除き年中無休に変更しました。このほかにもパン作りの過程の効率化にも取り組みました」
こういった荒井さんの改革を経て、現在のarc bakeryは月商250万円から300万円、20名弱のスタッフが働くまでに。事業は再び成長の軌道に乗ったのだ。荒井さんは「まだまだ厳しい」と言いつつも、達成感のある日々を過ごしている。
もっとも荒井さんの仕事はマネジメントだけに留まらない。
店舗経営に関わるすべてを荒井さんの判断や決定で進めていくこととなる。
「スタッフの体制が調わない場合、私自身が厨房に入ってパンを作ることも珍しいことではありません。また先日はエアコンの効きが悪かったので、自分でフィルターの清掃をして改善しました。ほかにも営業活動や同業間での交流などやるべき仕事は多岐にわたっています」
自らも頭も身体も動かして働く必要があり、さらには全ての責任が自分にある。
決して楽な仕事とは言えないだろうが、そんな点にこそ荒井さんは魅力を感じている。
「サラリーマンをしている時から自分にとっての幸せとは何かを考えていました。その答えのひとつに人生の選択肢が多いことが幸せだということがあります。arc bakeryでは全ての選択肢の決定権が私にあります。これは幸せだし、やりがいを感じられます」
事業オーナーとして働く醍醐味とは
そんな充実感がある中でも楽しいことや良い出来事だけがあるわけではない。 事業オーナーとして辛いことや苦しいことに直面することもある。
「以前、信頼して何でも相談できるスタッフがいました。しかし、そのスタッフがある日突然出社しなくなってしまうということがありました。自分の信頼は何だったのだろうかと強いショックを受けました」
また飲食店ということもあり、コロナの影響も大きく受けた。
「コロナはやはり辛い経験でした。スタッフが陽性になったら1週間以上は休んでもらうことになります。そうすると組んでいたスタッフ体制を見直さなければいけません。穴埋めを探し、見つからなければ自分で埋めなければならず、心身共に厳しい時期もありました」
どんな仕事においても楽しいだけということはないだろう。しかし、オーナーとしての苦労も経験していく中で荒井さんはサラリーマン時代からのある変化に気づいたという。
「オーナーとして仕事をして、感情の絶対値が増えていると感じるようになりました。楽しいことも悲しいことも感情の全てがサラリーマンの時よりも大きくなっています」
もちろん、荒井さんは感情の絶対値が増えた現在の日々を好意的に捉えている。
サラリーマンを続けていたら経験しなかったであろう山あり谷ありの日々。今後の荒井さんの人生には、もっと大きな山と谷が待ち受けている可能性もある。
しかし、そんな感情の絶対値が大きくなることこそが事業オーナーという仕事の醍醐味と言えるのかもしれない。
サラリーマン時代の活動が、パン屋業界では斬新な概念に
三戸政和氏のコメント
自分でパン屋をはじめようとすると、物件取得費、内装工事費、機器備品、運転資金で、2000万円くらいはかかります。それを担い手がいないという理由で、500万円という廉価で購入することができています。また、居抜き物件と違うのは、顧客(売り上げ)もついてくるということです。それらを考えると、数分の1のコストで念願のパン屋を経営することができたことになります。
荒井さんは、創業にかかるコストやリスク、手間を軽減しているからこそ、経営参画後すぐに事業の改善に力をさくことができ、売り上げの増加を実現しています。さらに、全然違う業種から参画することで、新しい視点を加えることも大きな経営改善ポイントです。パン屋は店舗販売のみのイメージがありますが、承継後は店舗外での販売にも注力することで、売り上げの上限額を引き上げています。
サラリーマン時代に行っていた営業活動という考え方を取り込んだだけなのですが、パン屋業界では斬新な概念になっているのです。みなさんの当たり前も、別業界の中小企業では経営改革を促す斬新なアイディアになることでしょう。