永田町は「ビジネスの常識が通用しない」…それでも保守派重鎮の息子が民間→政界に転身した理由

国民を苦しめる物価高に加え、実質賃金の停滞、高止まりする税・社会保険料の国民負担率、さらには台湾有事のリスクなど、石破茂政権には取り組むべき課題が山積している。こうした中、物価高や関税措置を受けた減税措置を求める提言を取りまとめて注目されたのが自民党青年局長代理の平沼正二郎氏だ。
保守派重鎮である平沼赳夫氏を父に持つ「政界のサラブレッド」に、消費減税や米価高騰、台湾有事にいたるまで、民間出身者だからこそ言える本音を尋ねた。短期連載全3回の第1回。(取材日:5月16日)
目次
「華麗なる一族」の異端児 民間に就職したワケ
――平沼さんは現在45歳でいらっしゃいますが、自民党の国会議員の中ではかなり若い部類に入りますよね。
そうですね。まあ、「まだ若手」というぐらいでしょうか(笑)。
――ちなみに、自民党では何歳までが「若手」という扱いになるのでしょうか?
一応の目安として、私が今所属している青年局という組織は、45歳までと定められています。ただ、これは年齢だけで決まるわけではありません。たとえば、当選回数が多い先生ですと、たとえ45歳以下であっても、青年局のメンバーというよりは「顧問」といった立場で関わられることが多いです。
――なるほど。平沼さんはお父様が平沼赳夫・元経済産業大臣でいらっしゃいますが、最初から政治の道を目指されていたわけではないのですね。
ええ、まったく。最初はソニーマーケティングという会社でサラリーマンをしていました。
――なぜ民間企業への就職を選ばれたのでしょうか。
父は長年政治家をやっていましたが、父自身が私に跡を継がせたい、いわゆる「世襲」させたいという意識はまったくありませんでした。ですから、父から「政治家になれ」といった話をされたことはなかったんです。
私自身、大学時代にマーケティングの勉強をしていたこともあり、ごく自然に、ものづくりの会社に行きたいなと考えるようになりました。それで、ご縁があってソニーマーケティングにお世話になることになった、という経緯です。なので、当時は自分が政治家になろうというふうに思ったことはありませんでした。
ビジネスの常識が通用しない…永田町で受けた衝撃
――そこから、どのような心境の変化があって、政治の世界に飛び込む決意をされたのですか?
直接のきっかけは、父が病気をしたことでした。病気が原因で、父が考えていたよりも早く引退せざるを得ない状況になったのです。父自身は、もう一期くらいはやりたいという気持ちがあったようですが、体調がすぐれない中で、突然解散総選挙になってしまった、と。これはもう間に合わないだろう、ということで、地元の支援者の皆さんからの「ぜひ息子さんに出てほしい」という強い要請もあり、出馬することを決意しました。
――民間の世界からいきなり政治の世界へ、ということで、見える景色はかなり違ったのではないでしょうか?
ええ、まったく違う世界でした。いわゆるビジネス界の常識が、ここでは通用しませんし、むしろこちらには霞が関の常識、永田町の常識といったようなものがあります。そのギャップには、最初は戸惑いましたね。
OJTなしでいきなり政界は難しい?「実は民間出身って…」
――具体的に、どのような点に戸惑われましたか?
普通の会社であれば、新人が入ってきたらOJTがあったり、研修制度があったりしますよね。でも、この世界には当然そんなものはありませんから(笑)。いきなり現場に放り込まれて、自分で学んでいくしかないわけです。
――国会議員の場合、秘書の経験がOJTのような役割を果たすことが多いと聞きますが、先生にはその経験もなかったわけですよね。
その通りです。秘書から議員になられた方は、当然、国会の仕組みや仕事の進め方をある程度分かっていらっしゃいます。また、各省庁の出身から政治家になる方も、政策立案のプロセスなどを熟知しています。そう考えると、私のようにまったくの民間出身、しかも秘書経験もなし、という人間は、実はあまり多くないんです。
大物政治家の意外な一面「家ではあまり…」
――お父様が保守派の重鎮として大変有名な方だったことで、その「看板」の大きさを感じることも多いのではないでしょうか。ご自身が政治の世界に入られて、改めてその存在の大きさを実感されたことはありますか?
それはもう、日々感じますね。実は、父は家ではあまり政治の話をする人ではありませんでした。ですから、私にとってはごく普通の父親だったんです。もちろん、仕事で色々なことをやっているのは知っていましたけれど。
しかし、いざ自分が同じ世界に入ってみると、その影響力の大きさに驚かされることばかりです。先輩の先生方から「いやあ、君のお父さんには大変お世話になったよ」としょっちゅう声をかけていただきますし、省庁の方々からも「私がまだ新人だったころ、とてもよくしていただいた」といったような話をよく伺います。そういうところで、父は間違ったことはしていなかったんだなというか、慕われていたんだなということは感じますね。
――「平沼」という名前を聞くとやっぱりお父様のことを思い浮かべる人も多いかと思いますが、一般の有権者の方からもそこからの期待みたいなものはあるのでしょうか。
そうですね。父の政策や考え方と、私のそれは、それほど大きく変わっているわけではないと思っていますが、地元の有権者の方からすると父の姿のイメージというのもありますから、そういった意味では私もそこからしっかり外れないようにしないといけないなというのはあります。