「パッポンは死んだ」…1998年、ブラックマンデーとバブル崩壊で資産の大半を失った男は観光地に堕したタイを捨て、無法地帯カンボジアの歓楽街へ
1980年代から90年代にかけて、アジアの歓楽街は熱気と混沌、そして甘美な腐臭に満ちていた。高度経済成長のあぶく銭を握りしめ、男たちは夜の底へと沈んでいった。これは、かつて暗黒街に沈み、熱気と混沌に溺れながら「愛」を探し求めた男の回想録である。「ブラックアジア」「ダークネス」でカルト的な人気を博す作家・鈴木傾城氏による連載「アジアの暗黒街で愛を探した男」第6回――。
<前回までのあらすじ>
著者はバブル期の株取引であぶく銭を得るも、ブラックマンデーとバブル崩壊で資産の多くを失った。それでもタイ・パッポンに沈没し、破滅の予感に怯えつつ現地の女性たちと交流する日々を送る。相次ぐ損失で心身共に疲弊し、「バクチ人生」に限界を痛感。虚無感のなか、普通の生活を求めて歩み出すも……。
目次
「仕事もしないで、ずっと株で暮らしてた」
1990年にバブルが崩壊してからも株式投資でもがき続けたが、バブル期とは真逆で何を買っても損を出すばかりだった。私は単にバブルで調子に乗っていただけなのだと現実を認識するしかなかった。
増えていた資産の半分以上が吹き飛んでいた。不幸中の幸いとも言うべきか、バブル崩壊時には信用取引をしていなかった。そのため、大損したとは言え、5年か6年くらいは仕事もしないでぶらぶらできるカネだけは残った。
ただ、私には社会的な資産が何も残っていなかった。友人もおらず、両親とも断絶し、仕事もなく、資格もなく、職歴もなく、生きる目的もなく、やりたいこともない。まったく何もない。空っぽだ。
タイの歓楽街パッポンで知り合った女たちしか関心がなかったが、そこに行かないのであれば、これから何をしていいのかわからなかった。ただ「普通の人のように暮らしたい」という気持ちが強かったので、とにかく日本で働くことに決めた。
いろいろ考えたあげく、玉砕覚悟で株式の新聞を発行していた会社のところに勝手に押しかけて、はじめて会った社長に「仕事もしないで、ずっと株で暮らしてた」と言ったら、気に入ってくれて即断即決で雇ってくれた。
ただ、雇ってもらって言うのも何だが、ワンマンで口も悪く、非常にうさんくさい社長だった。給料も安かった。だが給料はどうでも良くて、株式情報を印刷前に知って素早く売買したら儲かるのではないかという考えが裏にあった。
このときもまだ株で儲けようと画策していたのだ。だが、ほとんど儲からなかった。その新聞は、当たらない分析、勝手な推測、願望が入った推奨、仕手の煽り、ガセネタのオンパレードだったのだ。控えめに言っても内容はゴミ同然だった。
実情を知って私はあきれ果て、朝の通勤電車も疲れるので1年ほどでさっさと辞めてしまった。ついでに、株の売買からも手を引いた。やればやるほど傷口を広げるので、すっかりやる気を喪失していた。
異様な世界「暗黒街」は日本にもあった
他にやることがないので、しかたなく有限会社を作って近所の店からチラシの制作なんかを請け負ったりした。だが、それがやりたいわけでもないので虚しかった。普通の友だちを作ろうと思って無理もしたが、話も合わなかった。
テレビも見ない、芸能人も興味ない、スポーツも興味ない、観光地も温泉も興味ない、娯楽も興味ない、極度の偏食でグルメも興味ない、仕事も興味ない、流行の歌も興味ない、趣味もない。今でもそこは変わっていないのだが、これでは普通の人と話が合うはずもない。
普通に生きようと努力すればするほど精神的に追い込まれていき、最後は完全にノイローゼ状態になった。そのときは朝からずっと寝ていて、パッポンで知り合った女性たちの想い出を反芻するだけだった。
そんなあるとき、何かの用事で新大久保に行った。その帰りに新宿駅まで歩こうと横道を入っていくと、異様な世界がそこにあるのを発見した。
夜の街灯の下にイラン人の男たちがたむろしている。さらに奥に入ると、今度は派手な格好をした白人の女性たちが大勢立っていた。思わず息を飲んだ。それはストリート売春の光景だと一瞬で悟った。
彼女たちのひとりと目が合ったので、どこから来たのか尋ねると「コロンビア」だと言う。「そんな遠いところから!」と私は驚くしかなかった。当時の日本ではフィリピン人の女性が大量に入ってきていてフィリピンパブ大隆盛の時代だったが、ストリートの裏側ではコロンビア人までいたのだ。

その日は、声をかけてくれたそのコロンビア女性と過ごした。私はひさしぶりに心が高鳴るような感情を覚え、やっと生き返ったような気持ちになれた。その後、新大久保だけでなく、池袋北口、町田のラブホテル街、横浜の黄金町にも大量の外国人女性が路上に立っているのを知ったので、かたっぱしから行ってみた。
私がとくに惹かれたのは町田のラブホテル街、通称「たんぼ」と言われるエリアだった。かつて青線地帯だったその場所は、タイ人の出稼ぎ女性たちに占拠された形になっていた。小料理屋が「ちょんの間」になっていて、タイ女性だけで100人はいた。
さらに鹿島橋あたりにもベネズエラ、コロンビア、ミャンマーから来た女性たちが思い思いの場所で客を取っていた。私はやっと日本に自分の居場所を見出したような気持ちになって狂喜乱舞した。
池袋でストリート売春をしていたパナマ人の女性
町田・青線地帯で知り合った路上に立つタイ女性と意気投合し、橋のたもとにあったバラック小屋の飲み屋で一緒に食事していると、あるとき「もう、おカネは要らない」と彼女が言い出した。
「どうして?」