玉川徹氏「政治部が認めちゃだめだ!」テレ朝官邸キャップを生放送でブチギレ!「石破首相のウソ」ジャーナリズムの魂を売り渡したメディアの末路

テレビ朝日の情報番組『モーニングショー』で、石破茂首相の定額給付金に関する発言の変遷を巡り、政治部記者に対してコメンテーターの玉川徹氏が異例の苦言を呈した。この一幕は、日本の大手メディア、特に政治部が抱える深い問題、すなわち「権力監視」というジャーナリズムの根幹の喪失を浮き彫りにした。経済誌プレジデントの元編集長で作家の小倉健一氏は、この事態をジャーナリズムの「自殺」とまで断じ、政治記者が権力と癒着し、国民の知る権利に応える役割を果たせていない現状を厳しく批判する。本稿では、千々岩森生記者と玉川氏のやり取りを詳述するとともに、その背景にある日本メディアの構造的欠陥、記者クラブ制度の弊害、そして海外の先行研究が示すジャーナリズムの腐敗の実態を多角的に分析するーー。
目次
政治部たちがそれを認めちゃだめなんだよ!
テレビ朝日『モーニングショー』で起きた一件は、報道番組として異常な光景であった。発端は、石破茂首相の答弁の変節だ。首相は国会で、全国民への2万円の定額給付金を『政府として検討したことはございません』と明確に否定した。ところが、わずか2日後、一転して給付の実施を表明した。この明らかな矛盾について、同局の政治部官邸キャップである千々岩森生記者は『政府の政策は、決まるまで言えない部分がある。検討していると言った瞬間にぶわーっと走りますから』と、あたかも政権の都合を代弁するかのような解説を行った。
この発言に対し、コメンテーターの玉川徹氏は声を荒げた。『政治部たちがそれを認めちゃだめなんだよ!』。千々岩記者が『それは百も承知で…』と反論しようとすると、玉川氏は『百も承知ならそんなこと言わない方がいいと思うよ!』と言葉を遮った。
その瞬間、スタジオは凍り付き、出演者は押し黙った。司会の羽鳥慎一アナウンサーさえ言葉を継げず、約10秒間、咳払いだけが響く異様な沈黙が続いた。この沈黙は、権力監視というジャーナリズムの根幹を忘れ、取材対象と一体化した記者への痛烈な批判が突き刺さった結果であり、日本の大手メディアが視聴者の信頼を失った瞬間を象徴していた。
政治記者の理想像は常に以下のように語られているのではないか。
「権力に屈せず、国民の知る権利に応えるために闘う」「国民の知る権利に奉仕する」という姿だ。しかし、現実はそんな理想とは似ても似つかぬ「腐敗したドブ沼」にあったようだ。
記者から牙を抜き取る装置
永田町を取材拠点とする政治部記者は、特殊なムラ社会の住人となる。首相官邸や国会に常駐する記者クラブは、情報の独占と引き換えに、記者から牙を抜き取る装置として機能してしまう。番記者制度は特定の政治家への密着を通じ、客観性を麻痺させる。取材対象から得られるインサイダー情報は、記者に万能感と特権意識を植え付ける。
他社の記者と情報をすり合わせる『合わせ』と呼ばれる悪習は、報道の競争原理を骨抜きにし、横並びの馴れ合いを生む。作家の相場英雄氏は時事通信の経済部記者だった頃、大臣からコメントを得て速報しようとした際、政治部記者に『合わせがまだだ』と肩を掴まれ制止されたという(※)。真実をいち早く報じるという報道の原則よりも、記者クラブ内の閉鎖的な秩序維持を優先する歪んだ文化がそこにはある。
政治部は社内におけるエリートコースと見なされ、幹部への登竜門と化している。出世のためには、担当する大物政治家との良好な関係構築が不可欠となり、批判的な記事を書くことは自らのキャリアを危うくする行為に等しい。
なぜ政治部記者は政治家に転身するのか
政治部出身者が後に政治家や政治評論家に転身する例が後を絶たないのも、取材者と取材対象者の境界線が融解した癒着体質の象徴と言える。こうして記者は、権力の監視者から、権力構造を維持するための歯車へと姿を変えていく。
モーニングショーで見せた記者の態度は、個人の資質の問題ではない。大手マスメディア全体が、取材対象である権力者側の論理を内面化してしまった結果の表れに他ならない。政府の不誠実な説明を『決まるまで言えない部分がある』と代弁する行為は、国民を愚弄する権力者の共犯者になることと同義である。政治部が、自分たちを国民の代表ではなく、政界のインナーサークルの一員だと勘違いしていることの何よりの証左だ。
こうした記者と政治家の歪な関係性は、海外の研究でも鋭く指摘されている。英国の政治報道を分析した論文は、両者の関係が単なる情報交換に留まらず、政治プロセス自体に深く組み込まれている危険性を明らかにしている。Aeron Davis著『Journalist-Source Relations, Mediated Reflexivity and the Politics of Politics』(ジャーナリストと情報源の関係、媒介された反射性、および政治の政治学、2009年)は、日本の現状を映す鏡のように、その実態を以下のように指摘する。
記者と政治家は互いに依存し合う共生関係
「より興味深いのは、ジャーナリストと議員の関係が政治の営みそのものの中でどのような役割を果たしているかについての発見である。関係は制度化され、密接で、再帰的である。なぜなら、双方が日々の思考、意思決定、行動の中に他方を組み込むようになっているからだ。したがって、政治家は単なる広報のためだけに関係を利用しようとしてきた。彼らはまた、政策、プレゼンテーション、そして何よりもウェストミンスター自体のミクロレベルの政治についての情報源として記者を利用しようと試みてきた。結果として、ジャーナリスト自身が、しばしば意図せずに、政治的な情報源、仲介者、そして政治的アクターとして行動するようになったのである」
この論文が指摘する歪んだ構造は、テレビ朝日の政治報道にも明確に見て取れる。記者クラブ制度によって、政治部記者は政権中枢と日常的かつ継続的に接触する制度上の立場に置かれる。非公式ブリーフィングやオフレコ懇談を通じて、記者と政治家は互いに依存し合う共生関係を築く。
「取材継続性」は、時に「報道の中立性」よりも優先
記者は単なる報道者ではなく、政治家にとっての「感度の高い世論代理人」となり、政治家は記者の反応やニュース価値の判断を基に自らの発信戦略を練る。この相互作用の中で、報道は情報戦の道具と化す。Davisの調査では、インタビューした英国議会議員の68%が記者と毎日接触し、その中で政治家たちは記者の反応や記事の傾向を元に、自分の発言や政策提案の仕方を調整していた。8名の政治家が記者に「この政策はどう見えるか」と相談し、逆に記者も「こう書けばあなたに有利になる」と提案する場面が観察されていたという。
さらに、政治部記者が一つの持ち場に数年単位で常駐する慣例は、このバイアスを助長する。長期的な人間関係は「共通言語」や行動様式の同化を促し、「こう書けば喜ばれる」という忖度を生む。報道機関にとって、政権幹部との関係を維持する「取材継続性」は、時に「報道の中立性」よりも優先される。結果として、与党の意図はそのまま伝えられ、野党の発言は批判的に扱われるといった構造的なバランスの崩れが生じる。
ジャーナリズムの魂を売り渡したメディア
テレビ朝日の報道が政権に有利になる傾向は、個々の記者の思想信条の問題ではなく、報道と政局が相互に絡み合う構造が制度的に固定されているからに他ならない。本来、現場記者のこうした権力への過剰な寄り添いは、ニュースの最終的なゲートキーパーである編集デスクが厳しく律するべきだ。テレビ朝日の報道局では、この組織的なチェック機能さえもが麻痺している疑いが濃厚である。
視聴者が報道機関に求めているものは、政界の裏事情をしたり顔で解説してくれる便利な案内人ではない。国民が抱く素朴な疑問や怒りを代弁し、権力の中枢に切り込んでいく鋭利な刃である。
たとえ取材源を失うリスクを冒してでも、たとえ人間関係が破綻する可能性があったとしても、報道すべき事実を追求する覚悟が求められる。テレビ朝日政治部の記者たちに、その覚悟はあるのだろうか。モーニングショーでの一件を見る限り、答えは限りなく否に近い。彼らは権力との馴れ合いを選び、視聴者の信頼を裏切った。ジャーナリズムの魂を売り渡したメディアに、未来はない。
※『永田町で取材して分かった「政治部記者はなぜ態度がデカいのか」』 別冊文藝春秋 2018年1月号