戦国時代の「経済戦争」が証明するたった1つの真実…今後の日本経済を復活させる「真の主役」とは?
「失われた30年」から抜け出せず、国民の負担が増加する現代の日本。日本経済の閉塞感を打ち破るヒントは、およそ400年前の「戦国時代」にあった。
はたして、経済を力強く成長させたのはどのような政策だったのか。経済誌『プレジデント』元編集長で作家の小倉健一氏が、戦国武将の「経済戦争」を紐解き、これからの日本が学ぶべき教訓を語る。
みんかぶプレミアム連載「小倉健一の新保守宣言」
目次
戦国時代の「経済戦争」が証明するたった1つの真実
戦国時代は、武将たちが刀や鉄砲で領土を奪い合っただけでなく、国をどう豊かにするかという「経済戦争」の時代でもあった。強い軍隊を作り、それを維持するためには、莫大なお金が必要だったからである。
経済を成長させるために、国はどうあるべきか。歴史の公式な記録や専門家の研究を丁寧に読み解くと、経済を強くした政策と、停滞させた政策の違いがはっきりと見えてくる。結論から言えば、政府が市場を厳しく管理して税金を隅々まで搾り取るよりも、古いルールや特権を壊して「民間の商人が自由に競争できる環境」を整えた方が、経済は活性化したのである。完全に放置するのではなく、競争を邪魔する障害物を政府の力で取り除く「選択的自由」の強さを、戦国の歴史は示している。
関所撤廃と楽市楽座…信長が実践した「既得権益の破壊」
織田信長が天下統一の目前まで迫った最大の理由は、民間人が自由に商売をしやすい環境を作ったことにある。信長は「政府が何もしない」という無責任な放置をしたわけではない。一部の人間だけが甘い汁を吸う古いルールを、国の力で意図的に破壊したのである。これが、市場を正しく機能させるための「自由主義」である。
中世の日本には「座」と呼ばれる商工業者のグループがあり、市場を独占していた。彼らは権力者に税金を払う代わりに、新しい商人が商売を始めるのを徹底的に邪魔していた。現代で言えば、特定の企業だけが利益を独占する「既得権益」の塊である。
信長はこれを取り壊した。現存する最も古い一次史料である「加納楽市制札(かのうらくいちせいさつ)」(1567年頃、岐阜県の円徳寺が所蔵)には、「座の特権は認めず、自由な売買とする」と明確に書かれている。
長澤伸樹氏の研究『楽市楽座令研究の軌跡と課題』などが示す通り、信長は京都のお寺など一部の勢力には戦略的に「座」を残した事例もある。すべてを無計画に壊したわけではない。しかし基本方針として、新しい商人の参入を歓迎し、借金や一部の税負担を軽減した。これにより安土や岐阜には新しい商人が集まり、価格競争が起きて城下町の経済が活発化したのである。
当時の道路や川には、大きなお寺や貴族が作った私的な「関所」が乱立していた。1462年の『蔭凉軒日録(おんりょうけんにちろく)』という記録によれば、淀川から京都までの短い区間だけで、なんと29カ所も関所があった。荷物を運ぶたびに29回も通行料を取られては、物の値段が跳ね上がり、商売などできるはずがない。これは経済の血流を止める障害物だった。
信長は領地を広げるたびに、これらの関所を次々と撤廃した。当時日本にいた宣教師ルイス・フロイスは著書『日本史』の中で、「信長は高い通行税を免除した」と記録している。一部の天皇や公家に関係する関所は残ったものの、無駄な税金を減らして物流のコストを下げたことで、信長の領地は大規模な経済圏へと成長したのである。
当時、欠けたり質が悪くなったりしたお金(悪銭)がたくさん出回り、取引が混乱していた。市場の自由を守るためには、誰もが安心して使える「お金の信用」が必要である。信長は天正元年(1573年)に「撰銭令(えりぜにれい)」を出し、『信長公記』の記録にある通り、悪銭の交換レートを明確に定めた。さらに、取引の半分は良質なお金を使うよう義務付けた。これは市場への介入だが、民間人が安心してお金を使えるインフラを整えるための、必要不可欠な条件整備であった。
まるで現在の日本経済?武田信玄の「重税」が奪った民の活力
一方で、国家の都合ばかりを優先し、民衆に重い負担を強いる統制的な政策は、経済の活力を奪う結果を招いた。その典型が武田信玄である。