かまいたちの元マネージャーは、なぜ海外へ飛び出したのか?母の死で「人生ヤケクソ」に
吉本興業時代、とろサーモン・かまいたちのマネージャーかつアイドルグループ吉本坂46のメンバーとして活躍していた樺澤まどかさん。「まさに順風満帆」な会社員生活を送っていた樺澤さんだったが、28歳で吉本を退社し、海外移住に踏み切った。なぜそのような大きな決断ができたのか?海外移住の現実は?樺澤さんの率直な思いをつづる。
みんかぶプレミアム連載「樺澤まどかのロンドン卑屈日記」
目次
夢だった「お笑い芸人のマネージャー」に
2026年元旦、私はロンドンで3度目の海外での年越しを迎えた。
年越しの瞬間は、友人の家のソファに座り、日本の正月番組を見ていた。これも3年ぶりだ。海外にいるという理由で、ここ数年は意識的に日本のテレビを見ないようにしていたからだ。
お笑い芸人がネタを披露し、観客の笑い声が部屋に響くのを聞きながら、ふと、吉本で働いていた当時のことを思い出した。私も3年前はあの場所にいたのだと、懐かしいというよりも、少しだけ遠い場所を見ているような気持ちになった。
そして、「もしお笑い芸人のマネージャーという仕事を続けていたらどうなっていたのだろう」との思いがもたげてきた。
お笑い芸人のマネージャーになることは、私の長年の夢だった。中学生の頃から吉本で働きたいと思い続け、2019年、念願の夢を叶えた。新入社員として劇場に立ち、お客さんの笑い声を聞いているとき、自分の夢が現実になっていると大きな喜びを感じていた。これからどんな仕事をするのだろうかと、未来への期待でいっぱいだった。
母の死を経て、マネージャー&アイドルに
しかし、夢が叶って約2ヶ月後、私が24歳のとき、母が突然亡くなった。
そのとき初めて、人はいつか死ぬという当たり前のことを、現実として理解した。同時に、どうせ人生はいつか終わりが来るのだから、何をしても意味がないじゃないか、という投げやりな気持ちにもなった。とてもヤケクソで、悲しみを帯びた感覚だった。
そんな絶望的な感情を抱えたまま日々を過ごす中で、吉本のアイドルグループ(吉本坂46)のオーディションに社員も参加できることになり、先輩社員からの「社員も参加したほうが盛り上がるから、参加してみないか」という提案を、冗談半分で受けた。
当時ヤケクソマインドで生きていた私は、「アイドルのオーディションなんてもう一生受けられないだろうし、面白い機会だから受けてみよう。恥ずかしい思いをしても、変なやつと思われても、どうせいつか死ぬんだから、どうでもいい」と考えていたのだ。
受けるからには全力でやり切ろうと、オーディションでは特技のコンテンポラリーダンスを、芸人さんの中に混じって全力で披露した。普段は真面目そうにしている新入社員が突然謎のダンスをするのは、周りからすればものすごくヤバいやつだっただろうと思う。
その結果、私はアイドルに選ばれ、マネージャーとアイドルを両立するという予想外の働き方をすることになった。不安もあったが、周囲の人たちは温かく受け入れてくれた。それからの仕事は、忙しいながらも本当に楽しく、とても充実した幸せな日々だった。この環境でこの仕事をずっと続けたいと思っていた。
心の奥底に眠っていた海外生活への夢
社会人4年目の終盤、28歳のときにコロナに感染した。
体調を崩したことで、健康であることが当たり前ではないと実感し、再び死を現実的なものとして意識した。そのとき、私はまたいろいろ考えた。
新入社員の時からずっとがむしゃらに駆け抜けてきたけど、本当にこのままでいいのだろうか。体力のあるうちに、もっと違う生き方をしてみた方がいいのではないか。
そこで出てきたのが「海外に住んでみたい」という思いだ。それまで、海外生活が夢だったわけではない。それでも、生きているうちにやりたいことを考えたとき、最初に浮かんだのが海外移住だった。
このまま働き続けても、きっと楽しく素敵な未来が待っているのだろうと思っていた。それでも、「海外で生活してみたい」という気持ちが消えなかった。
特に明確な目的があったわけではない。あるのは、ただ海外に住んでみたいという気持ちだけ。その理由の薄さが、自分でも怖かった。そんな気持ちでいいのだろうか、と何度も考えた。それでも迷いに迷った末に、海外へ行くことを決めた。
英語もできないままオーストラリアへ
最初に行ったのはオーストラリアのシドニー。仕事を辞めてからわずか1ヶ月後には、英語の勉強もほとんどしないまま海外生活を始めた。家探しをし、アルバイトも始め、YouTubeで海外生活の発信も始めた。新しい生活に適応するのに精一杯だった。
ただそのとき何より強く感じていたのが、「24時間すべてを自分のために使えている」という感覚だ。社会人時代は、仕事の特性上、どうしてもプライベートより仕事が優先になりがちだった。しかしオーストラリアでは、家探しも、仕事も、YouTubeも全部含めて、自分で自分の人生を動かしているという初めての実感があり、苦労しつつもとても充実感があった。
オーストラリアで出会った友達は、それぞれが自分のやりたいことを大切にして生きていた。長く続けた仕事を突然辞めて全く違う仕事を始めたり、仕事を長期間休んで旅行に出かけたり、仕事に関係のない趣味に全力で没頭していたり……。年齢や経歴に関係なく、自分の人生の選択を自分で決めていた。
そして、それが特別なことではなく、当たり前のこととして許されている環境だった。その姿を見たとき、意味があるかどうかではなく、自分がやりたいかどうかで行動してきたこれまでの自分の決断を、初めて肯定された気がした。
とても素敵な経験ができたオーストラリアだったが、ワーキングホリデービザは海外に滞在できる期間が決められている。その後どうするかを考えたとき、もっと自分の英語力を磨きたい、新しい経験をしたい、なによりロンドンに住んでみたいというまたぼんやりとした感情を抱き、オーストラリアでの生活が終わった後は渡英しようと決めた。
「周りばかりが成長している」焦り
しかし、1年7ヶ月ほどのオーストラリア生活を終えて日本に一時帰国したとき、私はどこか置いてけぼりになっているような感覚を覚えた。
吉本の同期は役職に就き、後輩は立派に成長していた。友人は結婚し、子どもを育てていた。それぞれが、それぞれの人生を大きく進めていた。その姿を見ながら、私はただ海外で時間を過ごしただけで、私だけが何も変わっていないのではないかと思った。
もちろん成長した部分もあるけれど、それとは比にならないレベルで、みんなは大幅に飛躍しているように見えた。
ただ、そのような焦りの中でも、ロンドンに行こうという気持ちは止まらなかった。オーストラリアでの生活は、初めて「自分の人生を自分で動かしている」という実感があり、何よりも、行く前には想像しなかった出会いや経験をたくさんできた。行動すれば、今は想像できていない何かが必ず得られると確信していた。
そしてもう一つ、現実的な理由もあった。ワーキングホリデーで海外に住めるのは、年齢的に最後のチャンスだった。この機会を逃したら、もう二度と同じ形で海外に住むことはできない。生きているうちに、チャンスがあるうちに、元気なうちにできることはやっておきたいという、この時もまた「いつ死ぬかわからない」という思いが決め手となった。
後悔もあるけれど、今を生きていく
そして私はロンドンへやって来た。ロンドンでお正月を迎えたとき、ようやく私は会社員時代からオーストラリア、一時帰国も含めてずっと走り続けた人生を、一度立ち止まって考えた。その中では、どうしようもない“たられば”も浮かんできた。
あの時アイドルにならなかったら。
あの時海外に行かなかったら。
別の楽しい人生も存在していたのだと思う。ロンドンで正月番組を見ながら、私はその可能性に思いを馳せた。
あのとき別の選択をしていたら、もっと安定した人生があったのかもしれない。もっと誇れるキャリアがあったのかもしれない。
後悔がまったくないと言えば嘘になる。それでも、後悔があっても、人生は進んでいく。
母が亡くなったあの日から、私の中にはずっと、「どうせ人はいつか死ぬのだから」という感覚が残り続けている。
それは、投げやりな気持ちだったのかもしれないし、自分を守るための考えだったのかもしれない。でもその感覚があったからこそ、私は、同じ場所に留まり続けるのではなく、自分の人生を自分で選ぶことをやめなかったのだと思う。
あのとき、自分で選んだ。誰に言われたわけでもなく、自分の意志で、この人生を選んだ。
あのとき決断した自分を、いつか許してあげられるように、今を全力で生きていくしかないのだと思う。