「数字が読めないので借金額もわからない」「香水ではなくて汗と泥と土のニオイがした」1998年、カンボジアのスラム”トゥールコック地区”で見た世界最貧困国の現実
1980年代から90年代にかけて、アジアの歓楽街は熱気と混沌、そして甘美な腐臭に満ちていた。高度経済成長のあぶく銭を握りしめ、男たちは夜の底へと沈んでいった。これは、かつて暗黒街に沈み、熱気と混沌に溺れながら「愛」を探し求めた男の回想録である。
「ブラックアジア」「ダークネス」でカルト的な人気を博す作家・鈴木傾城氏による連載「アジアの暗黒街で愛を探した男」第8回――。
<前回までのあらすじ>
1998年、著者はプノンペンへ降り立つ。砂塵舞う街はバンコクの数十年前にタイムスリップしたようで、著者は直感的に「これだ」と歓喜する。モトドップの運転手に連れられたスラム売春地帯・トゥールコックで、白塗りの女たちと過ごした著者は、置屋やドラッグにまみれたプノンペンの退廃に深くのめり込んでいく――。
目次
カンボジアの女性は眉間にマジックペンで小さな星マークを描いていた
プノンペンを気に入ってからタイは通りすがりの国になってしまい、ほとんどの時間をカンボジアで過ごすようになった。私のお気に入りはブディンとトゥールコック地区のスラムだったが、特に好きだったのがトゥールコック地区だった。
この貧困地区にはベトナム人の女性とクメール(カンボジア人)の女性のバラック小屋に分かれていたが、私はあっちこっちに出入りしていたので、やがて女性を一目見たら、彼女がベトナム人なのかクメール人なのか、10メートル先からも見分けがつくようになっていた。
クメールの女性は化粧が厚かった。これは今でも傾向は変わっていないと思う。とにかく彼女たちは盛りに盛ってやり過ぎな容貌になってしまうのだが、そのエキセントリックな個性は嫌いではなかった。
ではベトナム人の女性は薄化粧なので普通なのかというと一概にそうでもなく、眉間の部分にマジックペンで小さな星マークを書いていたり、いろいろ奇妙なことをしている女性が多かった。
よくよく考えると、彼女たちはあまりにも貧しすぎて化粧品を買う余裕がない。そんな中で、マジックペンで小さな星マークを顔に書き加えるのは、彼女たちの考えた精いっぱいのおしゃれだったのかもしれない。
このスラムの女性たちを見ていると、バンコクの歓楽街の女性たちがいかに洗練されていたのかを思い知る。だが、こうした変わった化粧の女性たちと、暑苦しいバラック小屋の狭い部屋の中で一日一緒にいることも多かったが楽しかった。

カンボジアの食事が喉を通らない
食事は70ストリートの屋台で女性と一緒に食べた。アヒルの卵はアヒル自身が栄養失調なのか、ひどくまずくて「こんなにまずい卵があるのか」と驚くほどだったが、彼女たちは何も言わずに食べていた。
この頃のカンボジア料理は、どれを食べても本当にまずかった。私はカンボジアで生まれて初めてカメを食べたが、これも泥臭くて吐きそうになった。どういうわけか、魚まで生臭くてまずい。
彼女たちは白いごはんにコオロギをおかずにして食べることもあった。彼女たちは私にもコオロギを食べろと差し出したが、私が断固として拒否していた。すると彼女たちは笑って、これ見よがしにそれを頭からかじって食べるのだった。
コオロギだけは食べたくないと思ったが、あるときスラムの女性と一緒にオルセーマーケットに行って、近くのレストランでクイティウ(ラーメン)を食べていたら、コオロギの足が何本も混じっていた。もしかしたら、知らないうちに私もコオロギを食べていたのかもしれない。
食の好みは彼女たちとはまったく合わなかったが、それでもスラムの女たちと一緒にいる時間は楽しかった。
貧しい女性と深い仲になると…
もちろん、彼女たちに英語はほとんど通じない。私はクメール語もベトナム語もまったくできない。そのため細かい意思疎通はほぼできないのだが、それで何かが困るということはなかった。
代名詞や動詞はジェスチャーで表現できるし、目的語は10個から20個くらい覚えていればいい。それが近くにあるものであれば指させば事足りる。別に貧しい女性と政治経済の話をするわけでもないのだから、日常を過ごす上で、お互いに相手が何の言語を話しているのかすらも関係なかったとも言える。
ただ、どこの置屋でも最初は私を歓迎していたママサンは、私が必要以上に女性たちと親密になって小屋から出ていかなくなると、だんだん苛立ちを募らせて私を追い出しにかかるのが常だった。
私が意気投合して気に入った女性に1日べったり一緒にいると、女性も働かなくなる。私もバラック小屋の部屋を占拠するので、ママサンにとってはだんだん図々しい客に見えてくるようだった。
そのため、しかたなくトゥールコックから他のエリアに拠点を移すことも多かった。あるときはスワイパーだったり、あるときはブディンだったり、あるときは63ストリートだったりした。
クメールの女たちはベトナムの女たちを嫌っていた
ビザの関係もあってカンボジアとタイを往き来(ビザラン)していたのだが、タイに戻るとだんだんバンコクの物価の高さや都会的な光景に嫌気が差して歓楽街から足が遠のいた。
タイではやることもほとんどないので、日がな一日クロントイの近くやヤワラートのどこかで、何もしないで日本から持ってきた本ばかりを読んで過ごしていた。そして、頃合いを見てはプノンペンに戻った。
プノンペンに戻ると、スラムで生きている女たちのあいだを浮き草のようにさまよって過ごしていた。
トゥールコック地区にいると、見えないものも見えてくる。クメールの女たちはベトナムの女たちを嫌っていた。というよりも、カンボジアの人々はあまりベトナム人に対しては良い感情を持っていないことを私は何かにつけて知ることになった。
私がベトナム人の置屋で過ごしているのを知ると、クメールの女たちは「あっちに行くな。ベトナムの女は病気持ちだ」とあからさまに言ったし、警察もベトナム人の置屋に「カネを出せ」と嫌がらせに来たりしていた。
この当時のカンボジアの警察官はひどく腐敗していて、何かあれば置屋をまわってショバ代をせしめていた。私は見たことがないが、中には気に入った女性を見つけたらタダで性行為を強要することもあったようだ。
おまけに彼らは70ストリートの置屋群から市内に入る道に勝手に検問を設置して、私が女性とモトドップに乗っていると、それを止めて私の前でいきなり女性を警棒で殴りつけたりした。なぜそんなことをするのかというと、私に「やめて欲しかったらカネを払え」とやるためだった。私はカネを払わざるを得なかった。
私がバラック小屋の置屋にベトナム女性といたときも、警察が踏み込んできたことがある。彼女は警察がやってきたのを察すると、すぐに部屋にあったガンジャ(マリファナ)を床の隙間から下に捨てた。だが部屋に籠もったニオイは消せない。
警察は私たちを引っ張り出して「お前らドラッグをやってるだろう? ドラッグを出せ!」と怒鳴り散らしていた。「持ってない。前の男がやっていて、その男は帰った」と言っていると、「カネを出したら、お前らは自由だ」と言い出して、ここでも私はカネをむしり取られた。
ディスコ『ホリデー』では野放しなのに、そちらはフン・センの親族や取り巻きが出入りしているので放置され、権力の後ろ盾がない貧困地区ばかり狙ってくる。そういうのもあって、私はカンボジアの警察が大嫌いになった。
ピラミッドの絵で1ドルを認識していた女性
女たちを抱くと、香水ではなくて汗と泥と土のニオイがした。
70ストリートは舗装されておらず、車やバイクが通るとからからに乾燥した紅土(ラテライト)が舞い上がってバラック小屋の入口で客待ちをしている彼女たちはみんなそれをかぶっていた。
さらに彼女たちが客とのセックスが終わったあとの水浴びは、大きなバケツに溜めた雨水なので、やはり土と泥のニオイだった。だから、彼女たちからもそんなニオイがした。もう私はそんな女たちに夢中で離れられなかった。大好きだった。
だが、この頃からだろうか……。