雪肌精「みやび」の歴史は羽生結弦との激動の歴史…透明感、そして「美」。羽生結弦をめぐるプロポ 第6回「美」

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羽生結弦をめぐるプロポ 第6回「美」
「プロポ」とは『幸福論』で知られるフランスの作家アラン(1868-1951)の創り出した詩的文学の形式である。自由に、自然に、私の想うままに目を閉じて、私のままに書く。始まりから終わりまで水の流れのように「流れるままに」書く。
私は羽生結弦という存在を――まさしく自由に、自然に、想うままに、私のままに滑るプロ転向後の羽生結弦とアランの「プロポ」とを重ねていた。
さあ羽生結弦をめぐる「プロポ」――私のままに書こう。
思うがままに、捉えたものを、そのままに。
8.「美」 ――
羽生結弦は美しい。
本来はこれだけで構わない。
美しさとは美しさでしかなく、美は美の存在そのものにかたちづくられるのみにある。美に美でない何かを加えたなら――それは美ではない。
それでも、美しいものをただ美しいというだけでは、人にその美しさを伝えることは叶わない。
美は美そのものの修練によるものだ。鍛錬は肉体の向上を指すが修練は人格をも鍛え上げる。美は修練の結果でもある。
鍛錬でも上辺の美は向上する。それだけで構わない場合もある。おおよその人に世間から求められるのは鍛錬の美だ。何も間違っていない。
商品として提供する意味でもそうだ。
サービスにおいても「心も込めて」と建前上は言われるだろうが、人格面までも鍛え上げた上でのサービスを求められることはないだろう。
提供する本人にしたってたとえば、スポットで入った臨時の仕事で「修練」と呼ぶほどにその日一日のために命を削ることはないし、その必要もない。あくまでその仕事の上下や貴賤の話でなく「役目」の話である。
この国の失われた三十年とは、その建前を労働者の誰にも強いた結果と思う。
いわゆる「カスハラ」は心ない客が相手に対して鍛錬でなく、修練の賜物である「おもてなし」を求める認知の歪み(単に「勝手な押し付け」でもいいだろう)にある。修練の賜物を求めるには対価が足りない。それほどまでに修練による「美」とは至高の成果だ。
一流のおもてなし、一流の所作、一流の技、すべてが修練による美である。美は特定の芸術活動にとどまらない。人の生活そのものが美となることもなれば、人そのものの「美」もまたある。
羽生結弦の美
美が顕れるとすればどうだろうか、羽生結弦の美は氷上に顕れる。いや、氷上でなくとも日常にも顕れる。修練の結果の美とはそうしたものだ。それは羽生結弦と共にある人々だけでなく多くを惹きつける。