1998年のプノンペン。トゥールコック、63ストリート、ブディン、シャーキーズ、マティーニ・バー、ホリデー…置屋とドラッグにまみれたカンボジアの記憶
1980年代から90年代にかけて、アジアの歓楽街は熱気と混沌、そして甘美な腐臭に満ちていた。高度経済成長のあぶく銭を握りしめ、男たちは夜の底へと沈んでいった。これは、かつて暗黒街に沈み、熱気と混沌に溺れながら「愛」を探し求めた男の回想録である。
「ブラックアジア」「ダークネス」でカルト的な人気を博す作家・鈴木傾城氏による連載「アジアの暗黒街で愛を探した男」第7回――。
<前回までのあらすじ>
バブル崩壊後、資産と生きがいを失った著者は日本で「普通の生活」を模索するも馴染めず、アメリカ・中米を放浪。1998年にタイへ戻るが、かつての熱気を失い観光地化したパッポンに失望する。そんな折、カンボジアが無法地帯と化しているという噂を聞きつけ、著者は居ても立ってもいられなくなり――。
目次
バンコクから40年タイムスリップしたような街
1998年。カンボジアの首都プノンペンにあるポチェントン空港は、タイのドンムアン空港に比べるとひどく田舎じみた空港だった。それよりも衝撃だったのは、空港を出た瞬間に見えてきた光景だ。
首都なのに砂塵が舞い、走っている車は少なく、通りの向こうは煤けたビーチパラソルを立てて屋台の商売をして、貧しい身なりの人たちが歩いていた。バンコクから30年も40年も昔にタイムスリップしたような感覚だった。
「これがカンボジアなのか……」
その光景はかつてのアジアの原風景そのものだった。1986年に初めてタイに降り立って、タイ南部のハジャイ、さらに下に下った深南部(ディープサウス)と呼ばれるヤラーや、マレーシアとの国境の街スンガイコーロクで見た街を思い出した。
アスファルトをうっすらと赤土が覆っていて、バイクが通るたびに土煙となり、街全体が土のニオイがする。これぞ、アジアの原風景だと私は思って歓喜した。私が求めているのはこういう光景だった。
このときの胸が躍るような高揚感は今でも覚えている。
空港から街にはモトドップ(バイクタクシー)で向かった。路上はバイクまみれだった。ヘルメットなしの2人乗りで、逆走も割り込みも当たり前で首都なのに信号機すらも機能していない。
「これだ! これを求めていたんだ!」
ホテルの予約はしていなかったので、プノンペンの街に入ったら適当に安そうなホテルに泊まった。部屋は何もかもが安っぽかったが、私はベッドがあってシャワーの水が出たら文句はないので何の不満もなかった。
すぐに、プサートメイ(中央市場)に行ってアジア特有の猥雑な空間を楽しむ。市場のごみ捨て場のようなところにはボロボロの服を着たストリート・チルドレンたちが何人か座って何かやっているので、のぞきこむとビニール袋に入れたシンナーを吸っていた。目が合うと、子供たちは酩酊した顔で私にニヤリと笑った。
1980年代のタイの貧困街ヤワラートを思い出した。貧困国の貧困層のドラッグと言えば、まぎれもなくシンナーである。クロントイのスラムでもどこかからシンナー臭がしているのも確認している。カンボジアもやはりそうだった。

病気の子供を、工事現場で使うような手押し車に乗せて、人々にカネを乞うている母親もいた。子供は痩せ細ってぐったりしている。母親が私にすがるような目で見つめて手を差し出してくるので、私はポケットに入っている小銭を彼女に渡した。
市場は活気があったが、随所に貧困の光景が見て取れた。だが、私はタイ・バンコクのクロントイ・スラムで貧しい女性とずっと一緒にいたので、むしろこの貧困の世界のほうに慣れていた。経済発展してすっかり先進国みたいになってしまったタイよりも、むしろ未発達なカンボジアのほうが落ち着いた。
「これだ! これを求めていたんだ!」
私は1日目で完全にカンボジアの虜になった。すっかり小ぎれいになって他所行きの顔になってしまったタイなんか、脳裏から吹っ飛んでしまった。
モトドップのドライバーが連れて行った先に
当てどなくプノンペンの街を歩き、疲れたら適当な屋台に座って、コメの上に肉が乗っているだけの一皿料理を喰らう。子供が皿洗いをしていたのだが、その子はバケツに入った黒い水で、洗濯用の洗剤を皿に振りかけて洗っているのが目に入った。私は食中毒にならないことを願った。
そうしているうちに、夕暮れになった。
モトドップのドライバーが私のそばにやってきた。その男は英語をまったく理解しなかったのだが、腰を卑猥に動かして自分の太股をパンパンと叩き、それから意味深に私を見つめて「乗れ」というジェスチャーをした。
この男が私をどこに連れて行こうとしているのか即座に理解した――。