え、回答者は21人だけだって?産経が報道した調査に潜む疑問と医師の見解…「住宅での受動喫煙被害を考える会」

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 たばこ税の税収は国税と地方税のそれぞれにおいて、年間1兆円(合計2兆円)にものぼる。一方で、受動喫煙の問題は長年議論の種とされてきた。公共の場での喫煙が規制される中で、私たちは未だに「煙の流入」や「臭いの侵入」をどう扱うべきかを模索している。しかし、煙が健康に与える影響については十分に認識されているものの、その因果関係を個別に証明するのは意外に難しい。今や喫煙者は日本人の15%にまで減った。喫煙者はマイノリティーになった。しかし、未だにたばこに関する感情的な訴えが先行し、科学的な証拠が後回しにされがちな現実もある。そして受動喫煙問題の解決を遠ざけていると言える。経済誌『プレジデント』元編集長・小倉健一氏がこのテーマについて語るーー。

目次

産経新聞が掲載したとある記事

 産経新聞は2025年5月24日付記事「『臭いにおびえて転居』の現実 コンセント穴から隣家のタバコ臭 抗議でクレーマー扱い」において、近隣住戸からの受動喫煙被害を訴える人々の苦境と、市民団体「住宅での受動喫煙被害を考える会・兵庫」の活動を報じた。記事は、同団体が行ったアンケート調査で、被害を訴えた人の半数以上がクレーマー扱いされるなどの二次被害に苦しんだという結果を紹介し、受動喫煙が深刻な健康被害を引き起こす可能性や、専門家による室内への煙の流入経路の指摘を伝えている。

 この記事で紹介された市民団体のアンケート調査(インターネット)は、回答者数が21人と極めて少なく、その結果をもって一般的な傾向と見なすことには大きな疑問符が付く。回答者のほとんどが近隣トラブルを恐れて我慢していたと記述されているが、これが医学的に診断された受動喫煙症や『化学物質過敏症(MCS)』によるものか、あるいは別の要因によるものかは判然としない。被害を訴えた5人のうち3人が二次被害を経験したという記述も、母集団の少なさから統計的な有意性を持つとは言い難い。重要なのは、これらの訴えが医学的な診断や診察に基づいているのかという点である。過去の横浜副流煙裁判に関する報道で問題視されたように、医師による直接の診察を経ない診断書が作成された事例も存在する。医学的診断を欠いたまま個人の主観的な訴えやアンケート結果のみを根拠に議論を進めることは、問題の本質を見誤る危険性がある。

 カナダのケベック州にある、国民の健康を守るための専門機関である国立公衆衛生研究所(INSPQ)は、2021年に本件に関わる重要な報告書を発表している。

化学物質過敏症に隠されたメカニズム。実は「化学物質」が原因ではない?

 報告書は、『化学物質過敏症(MCS)』という病気が、私たちの体の中で一体どのようにして起こるのか、根本的な仕組み(専門用語で病態生理学的メカニズムと呼ぶ)について、最新の研究成果をまとめたものである。驚くべきことに、報告書を作るにあたり、研究者たちは過去に発表された4000本以上もの膨大な数の科学論文を一つ一つ丁寧に読み解き、網羅的に分析を行っているのだ。

 結果、大変興味深い結論が導き出された。多くの『化学物質過敏症』の患者が訴える症状と、私たちが日常生活で接する程度の濃度の化学物質が持っている毒性との間に、直接的なつながりがあるという考え方(仮説と呼ぶ)については、考え方を裏付けるだけの確かな証拠は見つからなかった。一般的に空気中に存在する程度の化学物質が、直接的に『化学物質過敏症』を引き起こしているとは言えない、というのが報告書の結論の一つである。

改善には時間がかかる…化学物質過敏症の治療法

 だからといって『化学物質過敏症』が取るに足らない問題だと言っているわけでは決してない。報告書は同時に、『化学物質過敏症』の患者が実際に経験している、長く続く体の不調(慢性的な生物学的障害と呼ぶ)や、症状の深刻さ、日常生活や仕事への大きな支障、社会全体で見た場合に決して少なくない数の人々がこの病気に苦しんでいるという事実(集団における高い有病率と呼ぶ)を論文では重く受け止めている。こうした点を総合的に考えると、『化学物質過敏症』は決して気のせいや思い込みなどではなく、実際に人々を苦しめている、真剣に向き合うべき健康問題であると明確に位置づけている。

 報告書が特に強調しているのは、『化学物質過敏症』という病気を理解するためには、患者の心の状態(心理的側面)、体の状態(生物学的側面)、社会との関わり方(社会的側面)という三つの側面を切り離して考えることはできない、ということである。三つの側面は、まるで複雑に絡み合った糸のように、互いに深く影響し合っている。病気に悩む多くの患者や、似たような症状を持つ他の病気(例えば慢性疲労症候群など)にも共通して見られる重要な要素として、「慢性的な不安」を指摘する。常に何かしらの不安を感じている状態が、病状に大きな影響を与えている可能性がある。報告書は、『化学物質過敏症』という複雑な病気を、多角的な視点から理解しようとする試みであり、今後の研究や治療の方向性を示す上で非常に示唆に富む内容となっている。

化学物質過敏症と受動喫煙、明確に区別すべき理由

 他にも、ZuccoとDotyによる2022年の総説論文は、MCSの定義、歴史、人口統計、有病率、病因論的課題を概観している。自己申告によるMCS症状と広く受け入れられている客観的な生理学的機能不全の指標との間に明確な関連性は見出されておらず、曝露と症状反応との間に明確な用量反応関係も観察されていない。根本的な病因や病態生理学的プロセスは依然として不明であり、議論の的となっている。この論文は、MCSの症状が多様であり、客観的な医学的検査との相関が確立されていない現状を指摘している。

 自動車メーカーで産業医を務める垣本烈医師は、診断のあり方について次のように述べる。

「『化学物質過敏症』はほとんどの場合、二重盲検法によって診断されているわけではない。つまり、患者の心理的な問題なのか患者が主張する『化学物質』によって引き起こされた物なのかが鑑別されないまま診断書が発行されているという問題もある。統一された診断基準はなく、二重盲検で試験を行うと対照群と反応が同じであることがほとんどだと知られている。つまり核となるのは感覚過敏(特定の臭いが過度に気になり体調を崩す)ではないかと考えられる。明確なエビデンス(発がん性や死亡率の上昇)を積み上げて明確となっている受動喫煙の害と一緒にすることは出来ない」

「実際にアレルギー症状が存在し合理的配慮が求められるとしても、基本的には患者側が自衛するのが筋だろう。都民がスギ花粉に苦しんでいるのは医学的に紛れもない事実だが、都民に他人の所有物である杉の木を切れという権利がないのと同じである」

科学的知見を元に、冷静に判断を促す報道を

 産経新聞の記事は、市民団体の主張やアンケート結果を中心に構成されており、「臭いにおびえて転居」といった情緒的な表現が用いられている。しかし、その背後にある医学的な問題、特に精神疾患の可能性や、症状の客観的評価の欠如については十分に触れられていない。受動喫煙が健康に悪影響を及ぼすことは広く認識されているが、個々のケースにおいてその因果関係を医学的に証明することは容易ではない。ましてや、コンセントの穴や空気取り入れ口からの煙の流入といった状況証拠だけで、法的な責任を問うたり、一方的に加害者と決めつけたりすることは、慎重であるべきだ。「クレーマー扱い」という二次被害の訴えも、その前提となる一次被害の医学的評価が曖昧なままでは、客観的な判断が難しい。

『化学物質過敏症』や受動喫煙問題を訴える団体が、医学的な診断や診察の裏付けのないアンケート調査を多用し、精神疾患の可能性を十分に考慮せずに社会運動を展開することは、患者本人にとっても危険な行為と言える。適切な医学的介入によって改善する可能性のある症状が放置されたり、あるいは誤った自己認識によって社会的に孤立を深めたりする危険性がある。報道機関は、こうした問題を取り上げる際には、一方的な主張に偏ることなく、医学的・科学的な知見を多角的に紹介し、読者が冷静に判断できるような情報提供を心がけるべきである。感情論や社会運動の熱気に流されることなく、問題の複雑性と、そこに潜む個人の健康問題を客観的に見つめる視点が求められる。

記事監修:垣本烈医師

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この記事の著者
小倉健一

1979年生まれ。京都大学経済学部卒業。国会議員秘書を経てプレジデント社へ入社、プレジデント編集部配属。経済誌としては当時最年少でプレジデント編集長就任(2020年1月)。2021年7月に独立。現在に至る。 Twitter :@ogurapunk、CONTACT : https://k-ogura.jp/contact

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