私たちの記憶は誰にもわたさない、誰にも奪えない。そう、羽生結弦があの日の記憶を拾い続けるようにーー『羽生結弦 notte stellata 2026』紀行(7)

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この光もまた、notteの星々

ここにも星々が瞬く。
notte2026の初日が終わり、暗闇にシャトルバスの灯火が煌々と輝く。
幾重にも輝く。
ヘッドライトと書くのは野暮だ。これは灯火だ。この光もまた、notteの星々だ。星々の灯火が、私たちを無事に仙台へと送り届けてくれる。
私はnotteのこの帰路も好きだ。
東北の3月、夜はいまだ寒い。立春は過ぎても東北の夜はまだ眠りのままだ。
それにしてもnotte2026、今回もまた素晴らしいものだった。
意味あるものだった。
意味なんていらない、なんてまやかしだ。意味はなければならない。結果としての意味は何であれ、あらねばならない。人の命と同様に。意味がないように見えるものでも意味がある。いや、意味がなくとも意味がないという意味がある。
私たちは誰であれ意味がある。意味がなくとも意味がある。命とはそういうものだ。それをnotteは教えてくれる。
もがき、苦しみながらも希望を追い続ける羽生結弦――。
メンテナンス期間を経て、その意味はより確かなものであった。新たな発見、フィギュアスケーターとして発見したと羽生結弦は語った。さまざまな解釈はあると思うが、私は今回のnotteで改めて「緊張感」という力を感じた。これまで緊張感がなかったとかそういうわけでなくより歴史の、世界の中でのnotteという緊張感を覚えたということだ。
あえて飛躍させるなら哲学的な緊張感と言ってもいい。あるいは、哲学対話とでも言うべきか。『Happy End』はまさにそれだった。
世の言う通り、確かに震災が風化し続けているのは事実だ。多くが伝えようともがき、苦しんでいても風化は止められない。被爆もそう、コロナ禍もそう、たくさんの命がそこにあったはずなのに、人は残酷だ。
羽生結弦の願いのままに
私は4月に福島第一原発を取材することが決まった。構内にも入る。双葉町で帰還困難区域の方にお話も聞く。多くが忘れている現実は現在進行系だ。日本被団協、東友会の被爆二世団体「おりづるの子」での活動も始まる。日本ペンクラブの広報委員としての役目も。私には書くことしかできない。それでも自分の為し得る限りをしようと思う。Notteはそんな思いもまた後押ししてくれる。
notteに集う人たちもまたそうだろう。それぞれに自分の為し得る限りをするための帰路につく。各地で観た人たちも、観ることかなわずとも心で集った人たちも、世界中の人たちが、羽生結弦の願いのままに祈る、そして声を上げる。
そうだ、声を上げる。
人は醜いと書いた。人は残酷だとも書いた。それでも、前に進む人は美しい。もがき、苦しむ中で愛他の心のままに氷上にあり続けた羽生結弦が今回もそれを表現してくれた。『Happy End』『八重の桜』ーーこれを受け取り、前に進むこともまた私たちの人としての有り様(よう)に思う。