港区港南のタワマンに1億円超も払ったのに…メシは「松屋」と「サイゼリヤ」とたまに東京海洋大の学食。おまけにスーパーはマルエツプチと八百屋で阿鼻叫喚
「住みたい街」と評される人気のエリアにも、掘り起こしてみれば暗い歴史が転がっているものだ。そんな、言わなくてもいいことをあえて言ってみるという性格の悪い連載「住みたい街の真実」。
書き手を務めるのは『これでいいのか地域批評シリーズ』(マイクロマガジン社)で人気を博すルポライターの昼間たかし氏。第19回は、かつて何もなかった品川駅の裏側「港南」の気になる住み心地に迫る。
目次
かつてはただの工業地帯。品川駅裏が「億の街」になるまで
港区港南。中でも東京海洋大学のある埋立地は、再開発によって都内でも屈指のタワマンエリアとなっている。だが、この街がいまのような姿になったのは、ごく最近のことだ。

品川駅は1872年5月7日(旧暦)、新橋よりも数ヶ月早く仮開業した、事実上日本最古の駅である。ところが、開業から126年もの間、駅の東西は分断されていた。西側の高輪地区と東側の港南地区は直線距離にして約500メートル。それでも、行き来するには30分かけて迂回するか、入場券を買って駅構内を抜けるしかなかった。
地元が東西自由通路の建設を要望し始めたのは1960年。そして、実に38年越しの悲願が叶ったのは1998年11月1日、「品川駅東西自由通路(レインボーロード)」の暫定開通によってだ。これを可能にしたのは、港南口に「品川インターシティ」(1998年12月開業)を開発した興和不動産が事業費の提供を申し出たことによる。総工費は約160億円だった。
それまで、港南は港区にありながら、まさに「陸の孤島」だった。西側の高輪が高級住宅街として戦前から栄えていたのに対して、東側の港南は埋立地の工業地帯。倉庫と流通施設と、そこで働く労働者ための都営住宅があるだけの街だった。

そこへ、2003年の東海道新幹線・品川新駅開業という決定的なカードが切られる。三菱グループ各社のオフィスビル群が相次いで竣工し、港南口はにわかに「大企業の本社が集まるオフィス街」へと変貌を遂げた。キヤノン、ソニー、日本マイクロソフト……。そして、オフィス街の足元には必然的にタワーマンションが生えることとなった。
90年代の港南口は「別の惑星」だった
筆者が品川駅を初めて使ったのは1990年代のことだ。あの頃の品川駅といえば、高輪口を出た瞬間の賑やかさが印象的だった。アンナミラーズのウェイトレスが愛想よく笑い、西武プリンスホテルが夜空に輝き、ちょっとした「東京らしさ」が凝縮されていた。
ところが港南口を出ると、そこは別の惑星だった。

薄暗い。人がいない。あるのは倉庫と、その倉庫に挟まれた殺風景な道路だけ。夜ともなれば街灯の数すら心もとなく、「ここ本当に山手線のターミナル駅か?」と自分の乗り降りした駅を疑いたくなるほどだった。地元の人間でもなければ、用もなく来る理由がない。というか、地元の人間も用がなければ来なかったのではないかと思う。
そもそも品川駅といえば、やさぐれた気分でホームの立ち食い蕎麦をすすり、混雑期に品川始発となる大垣夜行でいい席を取ろうと何時間も前から尻に新聞紙を敷いて呆然と待つ、それくらいしか用のない駅だったはずだ。それが今では駅ナカもオシャレな店ばかりになり、貧乏人と学生には用がないといった風情である。人間の記憶とはつくづくあてにならない。いや、変わったのは記憶ではなく品川駅なのだが。