常松広太郎のスポーツの原点「無理に続けさせない選択」と両親の教育方針

慶應義塾大学卒業・TOEIC満点990点。そして現在はシカゴ・カブス傘下のマイナーリーガーとして活躍。華々しい経歴を持つ常松広太郎氏の才能はどのように育まれたのか。広太郎氏と父・広一氏に話を聞いた。全4回の第1回。
※本稿では常松広太郎氏を「広太郎」、父・常松広一氏を「広一」と表記する。
みんかぶマガジン連載「天才たちの育ち方」
目次
早期のスポーツ教育にはこだわらず、まずは本人の好きなように
——幼少期の頃から、広太郎さんがどんなお子さんだったかを順を追って伺えればと思います。習い事などは何かされていましたか?
広一:習い事って本当になくて、ただ1つだけね、水泳は、生まれて8ヶ月から日本にいる最後の小3の終わりまで、これだけはずっと続けてましたね。
——水泳は、広太郎さんのほうがやりたいという感じだったんですか?
広太郎:いや、全く全くマジでやりたくなかったです。本当に(笑)
広一:勉強もスポーツもできる男の子のほうがいいなと思ったのもあって、幼稚園に入る前はサッカー教室に入れてました。だけど、もう友達と一緒にすぐ脱走して、ちょっと先の砂場で砂団子を作ってましたね、よく。長い時間、先生の言うことを聞いてやるというのは、まあ無理だったんですよね。
広太郎:あんまり覚えてないです。今も無理なんですけどね(笑)
「野球漬け」に見えて、実は家庭内に厳しいルールを作らなかった理由
——サッカー教室は脱走してしまったとのことですが、野球にはどうやって移っていったのですか?
広一:彼がリトルリーグに入る前の幼稚園の頃、僕は週末のゴルフをやめて、公園での野球遊びに付き合っていました。プラスチックのバットとボールを使い、僕が下から投げてワンバウンドしたところを彼がパカーンと打つ。それを2年間ほど毎週末やっていました。朝から公園で遊び、昼食をとりに家へ帰るのですが、食べ終わるとすぐに「また行きたい」と言って夕方まで続けるんです。土日はその繰り返しでしたね。
——本当に野球がお好きだったのですね。
広一:野球の練習が夕方終わると駅までテクテク歩いていって、駅にある東急デパートでトミカのミニカーを1個買ってもらうか、絵本を1個買ってもらうかで歩いて帰ってくるというのをやっていました。トミカくらいで、ゲームもなかったですね。小学校終わるか中学校の頭くらいまでは、誕生日のプレゼントも野球のものしか言わないんですよ。他に全く興味がないってちょっと危ないですよね(笑)
広太郎:いや、親父はそう言ってますけど、人並みにDSをやったりWiiをやったりというのはさすがにしてて、めちゃめちゃやってましたよ、普通に。友達が家に来てやったりとかして、人並みにやってました。
広一:あ、本当?それは俺の認識不足やな。平日はあまり家にいないからね(笑)
広太郎:野球はすごい好きでやってたんですけど、生まれたタイミングからずっと家で阪神戦がついてるんですよ、ずっと。だから親父と遊びに行ってサッカーや野球を色々するんですけど、明らかに家族全体で野球への熱の入り方が違っていて。
「これは野球なんだろうな」と幼心に分かってたし、そっちのほうが両親も俺もみんなが楽しんでたので、だんだんと野球に寄っていってチームに入っただけなんです。だから、結構その強制力はありました、野球は。選んだっていうか、選択肢が限りなく少なかったからそれを選んだ形になるだけで、家庭環境はそんな感じでしたね。