「直前のトラブル」だけに死の理由を求めるバッシングの限界…斎藤知事や立花氏を「人を死なせた者」と断定することの論理飛躍
兵庫県問題をめぐり、元局長や元県議の自死という結果をもって「特定個人が死に追いやった」と断定する論調が強まっている。だが、遺書や直前の出来事だけで単一の因果関係を導き出すことは、精神医学や自殺研究の観点からも大きなリスクを伴う。元プレジデント編集長でジャーナリストの小倉健一氏が、遺書という記録の客観的限界や多角的な検証の必要性を整理し、死を政治の武器にしないための「公平な検証」のあり方を提示する。
みんかぶプレミアム連載「小倉健一の新保守宣言」
斎藤知事と立花氏をめぐる問題点 「自殺」が生んだ論理の飛躍
兵庫県の斎藤元彦知事をめぐる問題では、告発文書を作った元西播磨県民局長が自殺したことで、知事への批判が一気に強まった。NHKから国民を守る党の立花孝志氏をめぐっても、立花氏から激しい攻撃を受けていた竹内英明元兵庫県議が自殺し、「立花氏が追い込んだ」という批判が広がった。
2つの問題には、事実として検証すべき行為がある。斎藤知事には、職員への強い叱責や、公益通報者を探し出して処分しようとした対応が問われた。立花氏には、竹内氏について警察が否定した情報を広め、死後も名誉を傷つける発信を続けた責任が問われた。しかし、ここで議論は一段飛ばしになった。関係者が自殺したという事実から、「あの人が死なせた」という結論へ進んだのである。自殺が起きる前に争っていた人物が、まるで人を殺した者のように扱われた。この飛躍を許してはならない。
人が自ら命を絶つと、議論の空気は一変する。それまで事実関係を争っていたはずなのに、死が明らかになった瞬間、周囲は「誰が追い込んだのか」を探し始める。そして、直前に対立していた人物に死の責任を背負わせる。
この反応は感情としては分かる。人の死は重い。権力者の叱責や、政治家による中傷が人を深く傷つけることもある。しかし、死が重いことと、特定の人物に死の原因があることは別の話である。自殺が起きたという事実だけで、直前に争っていた相手の責任まで証明されたことにはならない。まして、遺書や生前の訴えに特定の人物への恨みや批判が書かれていても、それだけで因果関係は確定しない。遺書は亡くなった本人の苦痛や認識を示す重要な資料である。しかし、客観的な調査結果でも、裁判所の判決でもない。
WHOも否定する単一原因論 複数の要因が複雑に絡み合う自殺の実態
国立精神・神経医療研究センターの研究者が『精神保健研究』に発表した「自殺と遺書」は、遺書を中立的な記録として扱っていない。遺書は、読む相手に何らかの影響を与えるために書かれる、一方向の意思表示である。しかも、自殺直前には視野が狭まり、「すべてか無か」「生きるか死ぬか」という二分思考に陥りやすい。その状態で書かれた文章には、動機や原因を調べる資料として明確な限界がある。
これは「遺書は嘘だ」という話ではない。遺書には、本人がその時に感じていた苦痛や怒りや絶望が記されている。その意味では重要な資料である。しかし、本人がそう感じていたことと、書かれた因果関係が客観的に正しいことは同じではない。遺書は心情の証言であり、事実を確定する判決文ではない。
世界保健機関(WHO)も、自殺を1つの出来事や1人の責任で説明することを否定している。自殺には、精神状態、健康、家族関係、仕事、金銭、孤立、過去の経験など、多くの要因が重なる。直前に大きな出来事があったとしても、それだけを原因と決めつけてはならない。
遺書が示すのは全体の一部 海外研究が明かす選択の偏りと限界
ここで注意すべきなのは、「最後の一押し」という言い方である。最後に起きた出来事は目立つため、それが原因に見える。だが、時間的に最後だったことは、原因として最も大きかったことを意味しない。直前の出来事だけを強調すれば、それ以前に積み重なった病気、孤立、家庭問題、経済問題は見えなくなる。
分かりやすい悪役を1人つくる説明は、悲しみを整理しやすい。だが、整理しやすさと事実の正しさは一致しないのだ。自殺研究で使われる「心理学的剖検」も同じ考え方に立つ。家族や友人への聞き取り、診療記録、勤務状況、生活上の出来事、過去の自殺企図、メールや通信記録などを集め、亡くなるまでの経過を組み直す。複数の証言と記録を照合し、食い違いも調べる。遺書だけで原因を決める手法ではない。
海外の研究でも、遺書を残した人は自殺者全体の一部にすぎず、遺書を残した人と残さなかった人では、精神疾患や対人関係、医療との接触などに違いがあると報告されている。つまり、遺書だけを集めても、自殺全体の姿は分からない。遺書には、最初から選択の偏りがある。