命がもがく、命が天を仰ぐ、死の切迫というエッジ『Happy End』――『羽生結弦 notte stellata 2026』紀行(3)

目次
解釈という何か

『Happy End』
私は困惑した。
なぜ困惑したのかーーその曲目や成り立ち、坂本龍一とYMOの関係性など、耳知識としてはまあ、ある。
私は年齢的にはそのリアルにない。私などより年代的に知る人もあるだろう。
『Happy End』
羽生結弦が、暗闇に倒れている。
氷上に、倒れている。
起き上がろうともがく、手足を懸命に動かす、瓦礫か、怪我か、それとも深層心理のもがきか、それではない何かかーー。
「作者の死」
その解釈に困惑したとき、解釈という何かが必要と判断したとき、私はこれをまず念頭に置く。
「作者の死」
哲学者ロラン・バルトの言葉。
私の専門に関わる文芸論のひとつだが、バルトより先に詩人ステファヌ・マラルメがécriture(エクリチュール・書くこと、文字で表現されたもの)のために、作者はまず抹殺されなければならないと書いている。
抹殺とは物騒な言い回しだが、マラルメからすれば作者がどうだの、書いた人がどうだったからこう、という観念はときとして捨て去るべし、ということだ。
法爾道理であること
わかりやすく言うなら、殺人の話ばかり書く推理作家だから殺人鬼だ、いじめられっ子の復讐話ばかり書くから(あるいは、その逆も)いじめられっ子だった、転生ものばかり書くから彼は現世に満足していないーーとは決してならないことはわかってもらえると思う。
もちろん「ときとして」と書いた通り、作者の深層心理は意図する、しないは作者の思うところ、思わぬところに影響を与えるのが法爾道理であることもまた、確かである。
かねてより羽生結弦はアイスストーリーについて「フィクション」を強調するが、この姿勢は哲学者ジャン=ポール・サルトルが「作品は作者から解放され自由であるべき」とした言葉につながるように思う。これによって作者でなく多くの読み手が自由に受け取ることができる。それぞれの解釈で、それぞれにとっての「自分の大切なもの」になる。
これをバルトは「テクスト」と定義した。のち哲学者ジャック・デリダによって「脱構築」という思想に昇華し、ある意味ポスト・モダン、現代の二次創作やネットミームといったサブカルチャー文化にもつながる。
死。バルトの言葉は過激だが本当は多くの読者、大衆文化に向けての優しさに満ちている。
作品の解放ーー私はまず、『Happy End』についてこれらを念頭に置いた。