第三十四話「父の遺産」連載小説「奪われるースパイ天国・日本の敗戦ー」
スパイ防止法がないこの“天国”・日本で、知らない間に国が「奪われる」──。
表向きの歴史やニュースの裏側に潜む、冷酷な国際諜報戦と、個人の運命が国家間の巨大な陰謀に巻き込まれていく壮大な安全保障サスペンス小説、ここに爆誕。
舞台は、女性初の内閣総理大臣・高地きみえが熱狂的な支持を背景に「強い日本」を目指す日本。彼女は長年の懸案である日本人拉致被害者の奪還を決意し、極秘裏に北朝鮮の金正恩総書記との会談に臨む。しかし、その外交交渉の裏側では、すでに北朝鮮の体制に「影」が差し込み、巨大な隣国・中国の思惑が絡み合っていた。
第三十四話「父の遺産」
平壌の地下深くにある、朝鮮労働党の最高幹部だけが知る秘密施設で金正恩総書記は妹、金与正と向き合っていた。煙草の煙が渦を巻くように立ち込め、彼女の視界をぼやけさせる。金正恩の目は血走り、額に浮かぶ汗が苛立ちを物語っていた。与正が煙を手で払いながら口を開いた。
「兄さん、日本にこれ以上弱腰でいるのは父の遺産を汚すことですよ」。与正の声は鋭かった。「拉致してきた者の生存情報を日本政府に提示するなど・・・。それは父・金正日総書記の顔に泥を塗る行為です。絶対に許されません」。「そんなことはわかっている!でも、もう俺の時代なんだ!」。金正恩は持っていた煙草を壁に勢い良く投げつけた。「お前は何もわかっていない! 外交とは力の均衡だ。情報を餌にすれば、日本を操れる。父の意志を継ぐのは俺だ。お前じゃない!」。
与正は唇を噛んだ。兄の目は輝きを失い、焦りがにじみ出ていた。北朝鮮の最高指導者としてプレッシャーに耐えきれなくなっているのは明らかだった。彼女は知っていた。兄は、父の影に怯えて金正日総書記時代の幹部たちを粛清していったが、いつしか自分の周りには「イエスマン」しかいなくなった。そして、父親がやらなかったことをやろうとするあまりに、間違えた判断を繰り返すようになった。もし、このままなら北朝鮮は崩壊する。彼女はそう確信した。