「歴史はクズだ」と吐き捨てながら、反論のない過去へ逃げたヘンリー・フォード…すべてを完璧に管理しようとした独裁者が、自ら生み出した黒い棺に葬られるまでの結末
かつて「黒一色のT型」で市場を支配したヘンリー・フォード。しかし、GMが仕掛けたデザインや分割払いという「欲望の階段」に対し、変化を拒み続けた独裁者の帝国は急速に機能不全へと陥っていく。息子エドセルの悲劇的な死と、孫による恐怖政治の解体を経て、絶対王者が退場していくプロセスとは。元プレジデント編集長で作家の小倉健一氏が、市場から置き去りにされた巨大システムの末路を明かしていく。
みんかぶプレミアム連載「一握りの大富豪だけが知っている世界の真実」
目次
「古いものの処分」を説いた男が最後には時代遅れのシステムそのものになるまで
「古いものの残骸は、体面を保って片付けねばならない」――ヘンリー・フォードは、1922年の社内報にそう書き残している。
だが、彼が築き上げた巨大な帝国の歴史において、自分自身の「古さ」だけは、最後まで片付けることができなかった。
1920年代のアメリカ自動車業界には、フォードが決して認めようとしなかった、ある決定的な変化が起きていた。ゼネラルモーターズ(GM)を率いるアルフレッド・スローンが、フォードとはまったく逆の発想で市場を猛烈に攻め立てていたのである。
スローンは、ただ走るだけの単一モデルを作り続けることをやめた。シボレー、ポンティアック、オールズモビル、ビュイック、そしてキャデラックという、価格帯の異なるブランドを階層状に揃え、顧客の所得向上に合わせて車を乗り換えさせる「欲望の階段」を作った。さらに、毎年のように外観のデザインを変える「年次モデルチェンジ」という手法を導入し、月賦による分割払いを積極的に取り入れ、雨風を防げる閉じたボディの車を主流にし、何よりも「色の選択肢」を爆発的に増やしていった。
工業史の頂点に達したその日に告げられた、絶対王者の終わりの合図
かつてフォードが「黒一色のT型」で切り開いた実用性重視の大衆市場は、10年も経たないうちに、色と分割払いとデザインの新しさを求める、複雑な消費市場へと姿を変えていたのだ。フォードだけが、その変化に気づかない、あるいは気づいても意地を張って認めようとしない、唯一の経営者だった。
1927年5月26日、フォードの巨大な工場では1500万台目のT型がラインオフした。これは工業史における一つの頂点であると同時に、絶対王者の終わりの合図でもあった。同じ日、フォードはついにT型の生産終了と、新型車モデルAへの移行を発表する。だが、この決断はフォード自身が先見の明を持って主導したものではない。息子エドセルをはじめとする周囲の人間たちの必死の説得と圧力に、老いた独裁者がようやく屈した結果だった。
そして、この決断はあまりにも遅すぎた。同じ1927年、ライバルであるシボレーは年間で約175万台を売り上げたのに対し、フォードは生産の切り替えにつまずき、35万台余りにとどまっている。かつて1921年時点で乗用車・トラック市場の約60パーセントを握っていた男は、この年、自分が育て上げた市場そのものから置き去りにされたのである。
実権なき社長、エドセルが24年間直面し続けた組織の壁
この転落の背景には、エドセルという一人の悲劇的な息子の存在がある。
1893年に生まれたエドセル・フォードは、1919年から1943年までフォード・モーター・カンパニーの社長を務めた。だが、実質的な決定権は、常に父ヘンリーが握り続けていた。エドセルは温厚な性格で、しばしば独善的な父に譲歩したが、それでも彼は、より洗練されたデザインの車、効果的な広告戦略、そして分割払いという新しい販売方式を、粘り強く父に提案し続けた人物だった。
T型の後継となったモデルAの設計と導入において、エドセルは極めて重要な役割を果たしている。さらに彼は、リンカーン・ゼファー、コンチネンタル、そしてマーキュリーといった美しい流線型の新しいブランドの立ち上げにも関わった。息子は、父が固執した黒一色の窮屈な世界に、色とスタイル、そして人間的な優雅さを取り戻そうとしていたのである。
しかし、この父子の緊張関係は、残酷な形で幕を閉じる。権力に執着する父は、事あるごとに息子の提案を退け、公衆の面前で彼を怒鳴りつけ、精神的に追い詰めた。エドセルは1943年5月26日(奇しくもT型生産終了と同じ日付である)、治る見込みのない胃がんのため、49歳でこの世を去った。