「命令を受け入れるか、工場を去るか」労働者に自由を与えず……「人間の解放」を謳う理念の裏で自動車王・フォードが完遂した、時間を殺して利益を絞り出すシステム
車の価格を3分の1以下に下げ、富裕層の玩具だった自動車を大衆のインフラへと変貌させたヘンリー・フォード。しかし、その裏側で行われていたのは、労働者から時間や裁量を奪い、ただ命令に従わせる冷徹なシステムの構築だった。元プレジデント編集長で作家の小倉健一氏が、この世界を一変させたイノベーションの裏に潜む、巨大な構造的矛盾を指摘する。
みんかぶプレミアム連載「一握りの大富豪だけが知っている世界の真実」
目次
「合理化の名言」が覆い隠す工場のディストピア
車の色は、黒でなければならないーーと、ヘンリー・フォードは書いた。客は好きな色の車を選んでよい、ただし黒であるかぎりにおいて、である。
1909年、フォードはT型フォード以外の車種の生産をやめ、シャシーもすべて同一にすると宣言した。そのすぐ後に添えられたのが、この一文だった。多くの人はこれを「合理化の名言」として微笑ましく引用されることが多い。
フォードは自伝『My Life and Work』の冒頭で、権力や機械、金や商品は、人間を自由にするためにこそ価値があると書いている。立派な理念ではないか。確かに消費者にとって「製品の安さ」は自由を得る手段となり得た。だが工場の中で起きていたことは、その理念とは正反対だった。彼が労働者に与えたのは、命じられたことをただ受け入れるか、工場を去るかの選択肢だった。
富裕層の玩具を大衆のインフラに変えた価格破壊の推移
フォードは市場を発見したのではない。市場を製造したのである。この違いに気づいたとき、T型フォードという商品の見え方は一変する。1909年、家族向けの標準モデル(ツーリング)は850ドルで売られていた。当時の労働者にとって、これは決して安い金額ではない。それが1913年には525ドルに、1914年には440ドルに、1916年には345ドルに、そして1925年には最低260ドルまで落ちる。対して、生産台数は、坂道を走る車のように加速度的に増えていく。1913年に17万台だった年間生産は、1916年には50万台を超え、1923年には200万台を突破する。1908年から1927年までの間に、フォードは1500万台を超えるT型を世に送り出した。価格は3分の1以下になり、台数は爆発的に増えた。
20世紀初頭の自動車製造は、鍛冶屋や馬車職人の作業場をそのまま大きくしたようなものだった。車体は工場の一角に置かれた木製の台の上に固定され、動くのは車ではなく人間だった。熟練の職人たちが台の周りを行き来し、部品を運んでは削り、削っては当ててみて、また削る。部品同士は必ずしも規格が揃っておらず、一台一台、手作業で「合わせ込む」ことが当たり前だった。
ある部品は別の車には流用できない。だから作業は常に一台完結型で進み、次の工程に移るまで、前の工程の職人はただ待つしかない。
このやり方では、一台の車を仕上げるのに数日を要することも珍しくなかった。熟練工の腕に品質のすべてが依存するため、同じ車種であっても、できあがった車の出来にはばらつきが生じる。工員は自分の技能に誇りを持っていたが、その誇りは同時に、生産の速度と価格の両方に重い足枷をはめていた。当時、自動車はまだ大衆のものではなかった。富裕層の玩具であり、値札には数千ドルという数字が並び、普通の労働者が自分の給料で自動車を買うという発想自体が、ほとんど存在しなかったのである。