第四十二話「本物の意地」連載小説「奪われるースパイ天国・日本の敗戦ー」
スパイ防止法がないこの“天国”・日本で、知らない間に国が「奪われる」──。 表向きの歴史やニュースの裏側に潜む、冷酷な国際諜報戦と、個人の運命が国家間の巨大な陰謀に巻き込まれていく壮大な安全保障サスペンス小説、ここに爆誕。
舞台は、女性初の内閣総理大臣・高地きみえが熱狂的な支持を背景に「強い日本」を目指す日本。彼女は長年の懸案である日本人拉致被害者の奪還を決意し、極秘裏に北朝鮮の金正恩総書記との会談に臨む。しかし、その外交交渉の裏側では、すでに北朝鮮の体制に「影」が差し込み、巨大な隣国・中国の思惑が絡み合っていた。
第四十二話「本物の意地」
ロシアのモスクワ郊外―。ヴォルガ川の支流が切り裂く険しい山岳地帯は濃霧に覆われていた。衛星の監視すら欺く深い峡谷は、彼らにとって好ましい場所だ。
森の奥を這うように進んでいた男は、マレーシアの空港で「殺された」はずだった。VX神経剤による毒殺事件は世界を震撼させたが、そこで犠牲になったのは彼の「影武者」である。それより前に彼はマカオでも暗殺されそうになった。以降、容姿や声が似る「影武者」を何人か用意し、マレーシアでの「死」を偽装してヨーロッパに潜伏していた。
もちろん、今も恐怖は絶えず襲ってくる。背後に息づかいを感じると、死を覚悟することが何度もあった。ロシアのFSB(連邦保安庁)か、英国のSIS(秘密情報部)か、米国のCIA(中央情報局)か、それとも単なる賞金稼ぎの「ハンター」か。生まれて間もない時から追われる立場となった彼は、常に警戒心を抱きながらも生き抜いてきた。
山岳地帯の険しい道で足音を殺し、息を止めて進む。震える手の中で頼れるのは古いコンパスだけだ。「生きろ。見つかるな」。呪文のように繰り返す言葉が喉を締め付ける。
東側の急峻な尾根を登る男もいた。厳しい教育を受けてきた彼は、束縛から逃れるように音楽にハマり、エリック・クラプトンのコンサートを口実に何度も欧州に向かった。留学した経験もある。ただ、自分の国に戻ると極度の精神不安からアヘンを求めるようになり、一時は「中毒」と診断された。以降は表舞台に出ることなく、影のように生活してきた。
気になるのは、実弟の情報が地下ネットワークに流れ始めたことだ。「あいつも、ついに・・・」。汗が冷たく頰を伝う。目的地はもうすぐだが、近づくほど疑念が膨らむ。「この再会は罠なのか?」。心臓の鼓動が耳鳴りのように響いた。
そして、西側の斜面を登っていた3人目の男も、また闇に追われる「亡霊」だった。他の2人と比べて、彼は父親から寵愛を受けてきた。何不自由なく育ち、自分が思うままの人生を歩むことができたが、それも今や昔。ある日突然、「眠り薬」で襲われると数人の男たちに監禁された。かつての部下に偽のスケジュールを流し、そのまま特別列車に隠れながら国境を越えた。時折、幻聴が襲う。ヘリコプターのローター音、犬の遠吠え、銃声の残響・・・。追われる恐怖に耐えられたのは、兄たちとの約束があったからだ。