彼女は私の顔にツバを吐いて逃げた…荒んだ世界一の暗黒街ムンバイ・カマティプラとフォークランド・ストリートで見た「男の地獄、女の地獄」
1980年代から90年代にかけて、アジアの歓楽街は熱気と混沌、そして甘美な腐臭に満ちていた。高度経済成長のあぶく銭を握りしめ、男たちは夜の底へと沈んでいった。これは、かつて暗黒街に沈み、熱気と混沌に溺れながら「愛」を探し求めた男の回想録である。
「ブラックアジア」「ダークネス」でカルト的な人気を博す作家・鈴木傾城氏による連載「アジアの暗黒街で愛を探した男」第16回――。
<前回までのあらすじ>
騒音と大気汚染、路上のホームレスで渾沌とするコルカタ。筆者はソナガチ、ムンシガンジ、ボウバザールという3つの暗黒街を巡る中、妊娠線の残る身体、亡くした赤ん坊の匂いが染みた布を抱いて声もなく泣く女性の姿に、言葉を失った。その、ムンシガンジで筆者は寡黙で無口なバングラデシュ人女性・ラシーダに出合った――。

<写真>インドの暗黒街にて(筆者撮影)
ソナガチとムンシガンジ、女たちの気質の違い
インドの街の人々はとにかく押しが強く、自己主張も強く、暗黒街の女たちも「カネ、カネ、カネ」の拝金主義が極まっている。そのため、1か月もいるとこちらのメンタルも限界に達して「ここ以外のどこかに行きたい」という気持ちになってしまう。
インドの田舎なら、また違った雰囲気があるのかもしれない。しかし私は、ソナガチやムンシガンジやボウバザールのような暗黒街しか興味がないので、なかなかコルカタから離れられない。
そうすると、この「騒乱」と言ってもいいような騒々しい空気の中で、ひたすら神経をすり減らすことになる。「疲れたらホテルでじっとしていればいいではないか」と考える人もいるかもしれないが、ホテルにいても落ち着かないのがインドだ。ヒマな従業員が用もないのにやってくる。
結局、私がコルカタで一番リラックスできる場所は、スラム街ムンシガンジ通りで知り合った無口なバングラデシュ人女性ラシーダの部屋だった。彼女の部屋はスラムの2階建ての建物の上階奥になっていて、ほとんど誰も来なかった。
ソナガチの女性たちと違って、ムンシガンジの女性が控えめに思えるのは気のせいでもなかった。比較すると、明らかに両者の気質が違った。ソナガチの女性はとにかくカネに執着した。対してムンシガンジの女性たちはあっさりしていた。
ラシーダの部屋だけが、心安らぐ場所だった
私がここで好きになったラシーダも、厭世的だったが優しかった。その言動には私に対する愛情のようなものも感じた。彼女は、コルカタの喧騒から私を守ってくれていたのかもしれない。
このとき私はバングラデシュにはまったく興味がなかったが、ラシーダの優しさを通して「バングラデシュもいいかもしれない」と意識するようになった。
暗い部屋で、彼女と一緒に食事をしたりして過ごした。コルカタの街はまったく好きになれなかったが、スラムの片隅で彼女とふたりで過ごす時間は大好きで、私はそれだけのためにコルカタにいたのかもしれない。
だが、ラシーダの部屋から出ると、ふたたび喧騒に巻き込まれる。私がインドに耐えられるのは、せいぜい2週間から3週間が限度だった。1か月持たなかった。あまりにも心身が疲弊したら、私はバンコクに逃げ戻ってヤワラートの安宿で過ごすか、日本に戻ってしばらく気持ちを落ち着かせるのだった。
資産は減っていくばかりだったが…
日本に戻ると、私は株式市場ばかり気にしていた。日本株はバブル崩壊ですっかり懲りて関心も消えていたので、見るのは米国株だけになっていた。
まだ現金比率が高く、米国株には本気ではなかったが、米国株式市場は好きな銘柄が多くて心が踊った。当時はスターバックスや、ハーレー・ダビッドソンや、ナイキなどの銘柄を買ったりして、「日本でこんな銘柄を選べる時代が来るとは」と感激していた。
ただ、この当時は買えない銘柄もけっこうあったりした。それならば、いっそのこと国外の証券会社に口座を作って、投資資金はそこで管理した方がいいのではないかと思い、わざわざシンガポールに行って証券口座を開いて資産の一部を移した。
この当時は、それが良いアイデアだと思っていた。しかし、この証券会社のウェブサイトはJavaで構築されていて、私の持っているパソコンとも相性が悪く、やたらと使い勝手が悪かった。売買手数料も管理料も高い。そのため、数年後にはまた日本の証券会社に資金を戻して日本で運用するハメになった。
ただ、私の減っていくばかりの資産は、米国株のお陰でまたゆっくりと増えていったので、「いつか残金ゼロになってホームレスと化し、どこかで野垂れ死にしてしまうかもしれない」という粘着的な不安はかすかにやわらいだ。
以来、ニューデリーは一度も行っていない
これまで東南アジアの国々を流れて、とうとうインドをうろつくようになった。だが、私が行くのはコルカタばかりだった。それで、たまには違うところに行こうと考えて、ニューデリーとムンバイに入ることにした。
ところが、エア・インディアでニューデリーの空港に着いたその日の夜から気分がどんどん悪くなり、激しい嘔吐、発熱、下痢が始まってホテルの部屋から一歩も出られない状況になった。
食事が当たったとしたら、エア・インディアの機内食しかない。コルカタの得体の知れない食堂でも何ともなかったのに、まさか機内食で食中毒のような症状になるとは夢にも思わなかった。
1日我慢したら治るのかと思ったら、ほぼ寝たきりのような状態で3日ほど部屋で苦しみ、やっと病状は収まっても、体力を喪失していて外をほっつき歩く気持ちにもなれなかった。とにかく、帰りたいという気持ちしかなかった。
そのため、いったんバンコクに戻ることに決めた。せっかくニューデリーに来たのに、ほとんど部屋から出ないまま出国する羽目になった。帰りのエア・インディアの機内食は食べる気もしなかった。ニオイだけで吐きそうになったくらいだ。
それがトラウマになったわけでもないが、以来ニューデリーは一度も行っていない。だが、ムンバイはどうしても行きたかったので、それからしばらくしてバンコクからの直行便でムンバイに向かった。
ムンバイもストリート・チルドレンやホームレスの山
ムンバイもまたコルカタと同じくらい渾沌(カオス)な都市で、ぼんやり歩いていると跳ね飛ばされそうな猥雑なエネルギーに満ちていた。やはり、この街もホームレスまみれで、鼻汁を垂らしたストリート・チルドレンたちがずっと私に付きまとった。
ムンバイに着いたら、有名なタージマハールホテルの近くのボロボロの格安ホテルに宿を取って、すぐに向かったのがダラビだった。インド最大級のスラムと呼ばれていた場所だ。
スラム自体はコルカタのムンシガンジと雰囲気は変わらないのだが、そのスケール感には圧倒された。ゴミの山にバラックの山に貧しい身なりの子供たち……。もはやインドでは資本主義がまったく機能していないか、瓦解しているとしか思えなかった。
私が泊まっているエリアはスラム地区ではなかったが、それでも多くのストリート・チルドレンやホームレスがたむろしていた。ある朝、ホテルを出ると、夫婦らしき老いたホームレスふたりが道路脇の溝で抱き合って寝ていた。それを、何人かの男たちが排除しようとしている光景を見た。
ボロボロの衣服を着た痩せたホームレスの男性と女性は罵倒を浴びせられ、棒で叩かれていたのだが、抱き合ったままその場を動こうとしなかった。
ホームレスの男性は女性を守ろうとして覆いかぶさったのだが、それが性行為を思い起こさせたのか、まわりの男たちが大笑いしながら棒でこづいていた。見るに堪えなくて、私はそっとその場を離れた。
カマティプラという荒んだ売春地帯
暗黒街カマティプラに向かった。タクシーで行ったのだが、そこに着いた瞬間、車の両側に男たちがびっしりと群がり、全員が窓から中をのぞき込んで私の注意を引こうとガンガンと窓ガラスを叩いた。どうやら、彼らは全員がポン引きで、女性を紹介してカネを手に入れようとしているのだった。
私は怖じ気づいたが、タクシーの運転手が早く降りろと怒鳴っているので、覚悟を決めてタクシーのドアを開けると、男たちがいっせいに私の腕や首や胴をつかんで、大声を上げてどこかに引きずり込もうとする。ソナガチよりもひどかった。