第三十六話「再度の訓練」連載小説「奪われるースパイ天国・日本の敗戦ー」
スパイ防止法がないこの“天国”・日本で、知らない間に国が「奪われる」──。
表向きの歴史やニュースの裏側に潜む、冷酷な国際諜報戦と、個人の運命が国家間の巨大な陰謀に巻き込まれていく壮大な安全保障サスペンス小説、ここに爆誕。
舞台は、女性初の内閣総理大臣・高地きみえが熱狂的な支持を背景に「強い日本」を目指す日本。彼女は長年の懸案である日本人拉致被害者の奪還を決意し、極秘裏に北朝鮮の金正恩総書記との会談に臨む。しかし、その外交交渉の裏側では、すでに北朝鮮の体制に「影」が差し込み、巨大な隣国・中国の思惑が絡み合っていた。
第三十六話「再度の訓練」
2日後の午前3時、東京の空は墨のように黒かった。街路灯の光が首相官邸の壁を不気味に照らし、影を長く伸ばす。黒い車列がエンジンの唸りを響かせて官邸の正面ゲートをくぐった。高地きみえ首相は車寄せで降り、足早に執務室に向かった。彼女の唇は固く結ばれている。SPたちの足音が夜の静寂を切り裂くように響いた。
官邸記者クラブ(内閣記者会)に知らせた表向きの理由は、首都直下型地震への対応訓練である。ただ、それがあり得ないことはベテランの記者の多くは気づいていた。わずか2カ月前に実施したばかりだった。
高地首相に米国から極秘情報が届いたのは2時間前のことだった。北朝鮮で「史上最大級の地下核爆発が迫っている」との情報だった。加えて、大陸間弾道ミサイルが太平洋へ向けて発射される、との分析もなされていた。事実ならば、日本上空を通過し、わずかな誤差で本土を直撃する可能性さえある。
官邸の地下にある危機管理センターに入ると、すでに重い空気が満ちていた。防衛省や外務省、警察庁など関係省庁に属する緊急参集チームのメンバーが疲弊した顔で立ち上がる。NSS(国家安全保障局)の市原啓太局長が額に汗を浮かべていた。空気が張りつめ、誰かの息遣いが聞こえるほどだ。
官邸スタッフの1人が震える指でプロジェクターを起動させた。スクリーンに映る朝鮮半島の地図には赤い警告マークが脈打つように点滅する。北朝鮮の地下施設とみられる場所では異常な熱源が検知されていた。米国のインテリジェンス機関が通信傍受したところによれば、「爆発準備は完了」「ミサイル燃料も注入」との結論に至っている。
市原局長が大きな声をあげた。「総理、核実験は実行される可能性が高いです。放射能漏れのリスクもあります。弾道ミサイルの方は太平洋に到達するとみられます。発射時刻は未明。気象条件次第で効果を最大化させるでしょう」。高地の心臓音が鳴り響く。
高地首相はゆっくりとイスから立ち上がり、緊急参集メンバーを見渡した。誰一人として目を逸らす者はいない。「核実験は阻止できない。だが、ミサイルの方は・・・」。大泉新太郎防衛大臣が自信を見せる。「発射地点と軌道データはつかんでいます。迎撃体制は整いました!」。市原局長が補足した。「ただ、迎撃可能なのは80%未満でしょう。最悪の場合は・・・」。高地の指が無意識に机の縁を叩いた。