「なんで普通にできないんだろう」自分の性格が嫌いだった樺澤まどかが、日本を離れて気づいたこと
「もっと明るくなりたい」「誰とでもうまく話せる人になりたい」—。日本で暮らしていたころ、樺澤まどかさんは、そんな自分の性格に劣等感を抱えていたと振り返る。しかし、オーストラリア、イギリスで暮らすうちに、自分を見る「基準」が変わってきたという。海外での生活を通じて気づいた、「自分を変えること」と「環境を変えること」について、樺澤さんが語る。
みんかぶプレミアム連載「樺澤まどかのロンドン卑屈日記」
ずっと劣等感を抱えていた
私は昔から、自分の性格をあまりいいものだと思っていなかった。基本的にネガティブで、特別明るいわけでもない。人と話すことは嫌いではないけれど、誰とでもすぐに仲良くなれるような社交的なタイプでもない。
日本で仕事をしていた頃は、そんな自分の性格に劣等感を覚えることがよくあった。
もっと明るくて、誰とでもうまく話せて、いつも前向きでいられたら、仕事も人間関係ももっとうまくやれるんじゃないか。
周りを見てはそんなことを考えて、できない自分に自己嫌悪する。まさに卑屈な性格。
こんな性格は、できることなら変えたほうがいいと思っていた。
でも、日本を出てオーストラリアに住み、今度はイギリスで暮らすようになってから、その考えが少しずつ変わってきている。
といっても、「海外生活のおかげで、ものすごく明るくポジティブになった!」とか、そういう話ではない。私は今でも普通にネガティブだし、別に社交的にもなっていない。変わったのは、自分の性格ではなく、それに対する見方だった。
「なんとかなる」と感じたオーストラリア
最初に住んだ海外は、オーストラリア。現地でまず感じたのは、「みんな明るくてのんびりしている」ということだった。もちろん全員がそうだったわけではないけれど、私の周りには、よく喋って、よく笑って、知らない人とも気軽に会話をする人が多かった。
カフェに行けば、全然知らない店員さんに「今日はこのあと何をするの?」とか「今日の仕事はどうだった?」とか聞かれて、そこから普通に会話が始まる。別に本気で私の今日の予定を知りたいわけではなく、気軽にフレンドリーに話しかけること自体が、コミュニケーションの一つだったように思う。職場でも同様にまずは世間話から会話がスタートするので、日本にいたころより、ずっと人との距離が近く感じた。
そして、みんないい意味で適当だった。昨日言っていたことと今日言っていることが違ったり、その日の気分で予定が変わったりすることが多々あって、最初の頃は「前と言ってること違うじゃん!」と思うこともあった。ただ、そんなことが繰り返されるうちに、「まあ、いっか」と思うようになっていった。
そんな気まぐれな感覚を、人生単位でも繰り返している人が、私の周りには多くいた。「アイスクリーム屋さんをやりたくなったから会社辞めます」と大手企業を突然辞めたり、「今のビジネスに飽きたのでお店閉じます」とうまくいっているお店を畳んだり、「今やりたいことないからとりあえず長期で休みます」と半年以上なにもしなかったり。
周りにいる人たちが、あまりに焦っていなさすぎるおかげで、「人生、意外となんとかなるのかもしれない」と、ちゃんとしていない自分をそこまで責めなくてもいいと思えるようになった。
一方で、それでも周りの人たちへの憧れは強く残っていた。私自身が明るく社交的な人間になったわけではないし、毎日ハッピーでポジティブになったわけでもないから、そんな人たちを見て、「こんなふうになれたらいいなあ。羨ましいな」と思っていたのだ。
優しい人が明るいわけではない
ロンドンに来てからは少し違った。
ロンドンでは、オーストラリアにいた頃と比べると、人との距離は少し遠く感じる。見知らぬ人と会話が始まることはあまりないし、街を歩いていても、みんなそれぞれ自分の目的地に向かって忙しそうに歩いている。職場でも、最初から誰とでもフレンドリーというよりは、はじめは少し距離がある。
そして、みんないつも明るいわけでもない。天気が悪ければ文句を言うし、仕事が大変なら「今日は最悪だった」と言う。疲れていれば疲れた顔をしているし、皮肉も言う。
だけど、不機嫌そうだった人が、次の日には普通に明るく話しかけてきたりするし、今日は誰とも喋りたくないみたいな空気を出している人がいても、それはそれで放っておかれている。
オーストラリアにいた頃に感じていた、「みんなハッピー!」みたいな空気とはかなり違うけど、みんなそれぞれのテンションのまま、ゆっくり人との関係を築いて、仕事をして、普通に楽しそうに生きている。
今の職場でも、最初は同僚と少し距離があり、馴染むのに時間がかかりそうだなと不安を感じていた。もしかしたらみんな優しくないのかなと、同僚に話しかける時には少し緊張した。
だけど働いているうちに少しずつ会話が増えて、気づけば仲良くなった同僚と休みの日に遊びに行くような関係にもなった。そして仲良くなればものすごく優しかったり、困っていると当たり前のように助けてくれたりする。明るくて社交的であることと、優しいことは、別に同じではない。そんな当たり前のことを、私はここに来て改めて感じた。
そして少しずつ、「私も別にこのままでいいのでは?」と思うようになった。ネガティブでもいいし、誰とでもすぐに仲良くなれなくてもいい。いつもニコニコしていなくても、それだけで人として何かが足りないわけではない。自分ではずっと「変えたほうがいい」と思っていた部分を、そこまで悪いものだと思わなくなった。
自分を見る“角度”を変えた
違う場所で暮らしてみて、改めて日本にいた頃の自分のことを考えるようになった。
なぜ私はあんなに、自分の性格を「直したほうがいいもの」だと思っていたんだろう。もちろん、日本にいる人がみんな明るくて社交的なわけでもないし、「ネガティブな人はダメ」なんて誰かに言われたわけでもない。ただ、日本にいた頃の私は、「普通はこういうもの」という感覚を、強く持っていたように思う。
もっと明るく振る舞ったほうがいいとか、人とは積極的に関わったほうがいいとか、嫌なことがあってもいつまでも引きずらずに切り替えたほうがいいとか。そういうことは分かっているつもりなのに、自分はその通りにできない。
だから私は、「なんで普通にできないんだろう」と、自分に問題があるように感じていた。でも今考えると、その「普通」も、本当にみんなにとっての普通だったのかは分からない。周りを見ながら、私が勝手に作り上げた「こうあるべき」も、かなり混ざっていたと思う。
また、日本にいた頃の私は、日本にいる人たちのことや、そこにある空気を、分かった気になりすぎていたのかもしれない。日本語なら、相手のちょっとした言い方や表情から、「今の言い方まずかったかな」とか「もしかしてこう思われているのかな」とか、いくらでも考えることができる。
私はもともと人と自分を比べやすいので、そういうものが全部見えてしまう環境では、勝手に周りと自分を比べて、「もっとうまくやらなきゃ」と、自分に足りないものばかり探していたのかもしれない。
一方、海外では、私はその場所のことを完全には分かっていない。言葉も日本語ほど細かいニュアンスまで拾えているわけではないし、その国で生まれ育った人たちが感じている「普通」や「こうあるべき」を、全部理解できているわけでもない。私が、そこにある空気を日本にいるときほど正確に読み取れていないだけで、海外のほうが本当に自由なのかは分からないけど、私にはそれくらいがちょうどよかった。周りの目を全部理解できないからこそ、必要以上に自分を採点しなくて済む。
海外で暮らす中で、自分とは全然違う人たちや、これまでとは違う人との距離の取り方にも触れた。オーストラリアでは、「そんなにちゃんとしなくても、意外となんとかなる」と思えるようになった。ロンドンでは、「いつも明るくて社交的じゃなくても、ちゃんと人と関係を築いて生きていける」と感じるようになった。
私はどちらかの国の人たちのようになれたわけではないけど、それまで自分の中にあった「こうあるべき」の外側にも、いろいろな生き方があることを知り、今まで一つしかなかった自分の中の基準が、少しずつ広がっていった。
今でも、自分の性格をものすごくいいものだと思っているわけではない。相変わらずネガティブだし、人と比べて勝手に落ち込むこともある。もっと明るかったらいいのに、もっと社交的だったら楽なのに、と思うことだってある。でも、以前ほど「この性格を直さなきゃ」とは思わなくなった。いる場所が変わっただけで、自分の性格を少し違う角度から見られるようになった。
自分が欠点だと思っているものは、どんな場所でも必ず欠点になるわけではないのかもしれない。もちろん、自分を変えることで生きやすくなることもあると思う。
でもそのままの自分でいても居心地のいい場所や、自分の嫌いな部分をそこまで嫌いだと思わなくて済む環境に出会うことで、このままでも意外といいのかもと思えることもあるのだと知った。