「終わった。人生、これで終わりだ」アジアの暗黒街で愛を探し続けた男が感じた”絶望と孤独”
1980年代から90年代にかけて、アジアの歓楽街は熱気と混沌、そして甘美な腐臭に満ちていた。高度経済成長のあぶく銭を握りしめ、男たちは夜の底へと沈んでいった。これは、かつて暗黒街に沈み、熱気と混沌に溺れながら「愛」を探し求めた男の回想録である。
「ブラックアジア」「ダークネス」でカルト的な人気を博す作家・鈴木傾城氏による連載「アジアの暗黒街で愛を探した男」完結編――。
<前回までのあらすじ>
フィリピン初上陸。マニラの元歓楽街エルミタを経て、売春バー「L.A.カフェ」に通う中、女性たちが結婚による貧困脱出を望む現実を知る。その後、米軍基地の街アンヘレスへ移動し、堕落した歓楽街の空気に懐かしさを覚える。しかし、男の身体には取り返しのつかない異変が起きていた――。
サバンビーチの堕落が漂うホテル
フィリピンにはいくつもの暗黒街がある。そのうちのひとつが、サバンビーチのゴーゴーバー地帯だ。
サバンビーチはミンドロ島の北岸プエルトガレラ町にある。マニラからバスに乗って港まで向かい、港から1時間以上かけてミンドロ島に向かう。私が行き来していた頃は、バタンガス港からサバンビーチまで直行便のバンカーボートがあった。
サバンビーチはとても美しいエリアで、私はすぐにここが好きになった。ビーチ沿いにバンガローが並んだホテルがあったので、パスポートを預けてそこに泊まった。
泊まっていたのは主に欧米人だった。昼間になると、近くのゴーゴーバーでバーファイン(連れ出し)された女性たちが、バンガローの入口に座って談笑している姿があった。堕落が漂うこのホテルは、私には居心地が良かった。
島にはレストランもあったし、地元版コンビニとも言えるサリサリ・ストアもあった。トウモロコシを焼いて並べている屋台もあったし、いろんな果物を売る行商の子供たちもいたので楽しかった。
狭い路地のあちこちにはゴーゴーバーがいくつかあったので、夜になると私はそこに入り浸って多くの女性たちと知り合った。毎日毎晩、出会ったばかりの見知らぬ女性をバンガローに連れて帰って一緒に過ごした。
どうも耳が聞こえない
サバンビーチは気に入ったが、気がかりなことがあった。聴力がおかしくなっていた。どうも両耳が詰まった感覚があるし、キーンという高音の耳鳴りがいきなり起こったりした。インドにいた頃から耳鳴りはあったが、ひどくなってきていた。
最初は特に気にしていなかった。花粉症の悪化か、ゴーゴーバーの大音響で耳が疲れただけだろうと軽く見ていた。しかし、聞こえも悪くなったし、音楽も以前と聞こえ方が違った。全体が平べったい感じだ。
ある時、サバンビーチの奥を知り合った女性と散歩していると、くらっとめまいがして歩けなくなった。歩いているのに足が地面についていないような、心もとない感覚だった。思わず女性の肩をつかむと、彼女は私の異変を察して路肩に座らせてくれた。
マリファナでバッド・トリップした感覚に近い。この頃はまったくマリファナは吸っていなかったし、マジック・マッシュルームも食べていなかった。フラッシュバックではないだろう。
「いったい、何が起きてるんだ?」
不安だったが、じっとしていると気分が回復したので、もしかしたら何かの栄養が不足しているのかもしれないとも思った。
私は子供の頃から超偏食で、「あれは嫌い、これも嫌い。あれは食べたくない、これは食べたくない」が大人になってもずっと続いており、ほとんどジャンクフードか超加工食品しか食べない生活でやってきた。
栄養が偏っているのは自覚しているので、たぶんビタミンか何かが足りないんだろうと思い、その日はオレンジジュースをがぶ飲みしてビタミンを摂ったつもりになった。そのときは、それで聴力が戻った感じがしたが、やはり周期的に人の声が籠もって聞こえにくくなった。
サバンビーチでは、気がかりに思いながらも低下した聴力を放置したまま、ゴーゴーバーの女性たちと過ごしていた。
聴力は芳しくなく、繰り返し聞こえが悪くなった
ここにはゴーゴーバーが8軒くらいしかなかったが、どのバーにも女性が数十人、大きな箱では百数十人がいるほど隆盛で、熱気でむんむんしていた。
女性のほとんどはメトロ・マニラ(マニラ首都圏)から出稼ぎに来ていて、週末になるとマニラの実家に帰って、また月曜日には戻ってくるという女性も多かった。中には姉妹で出稼ぎに来ている女性もいた。
姉妹で来ていると男たちに言うと、ふたり同時にバーファインされて一緒にセックスすることも多いと彼女たちは屈託なく話した。姉妹セックスには慣れていて、むしろその方が同時に稼げるので好きだと笑って言った。
あるいは、日本のフィリピンパブで働いていて、日本人の男に騙された女性もいた。訛りはあったが、けっこう流暢に日本語が話せて「騙されたけど、恨んでない。また日本で働きたい」と彼女は言った。
アンヘレスで知り合ったルビーと同じように、黒人とフィリピン人のハーフの女性もいた。彼女のことが気になったが、ルビーのことでトラウマになってしまっていたので、その女性をバーファインすることはなかった。
本当に多くの女性たちがいるので、サバンビーチは飽きなかった。泊まっていたバンガローも心地が良過ぎて、もしフィリピンで暮らすならここだと思ったのだった。
だが、聴力は芳しくなく、繰り返し聞こえが悪くなるし、耳鳴りもしばしば起こった。とりあえず、日本に戻ったら耳鼻科に行こうと思ったのだが、フィリピンを出て私が向かったのはパタヤだった。
フィリピンも気に入っていたが、パタヤも私のお気に入りになっていた。やはり体力がなくなっているのを自覚しているからか、ビーチで海でも見つめて過ごすのが自分に合うようになっていた。
オープンバーで女性と意気投合して一緒にバーを出ても、ホテルに戻る頃にはひどく疲れて、何もしないで朝まで寝ることも多くなった。
早めに日本に戻ることにした。
どうも治らない見込みが高かった
日本に戻ると、聴力は落ち着いたような気がした。それで、すぐに病院に行くのが億劫で、ただマンションの一室で文章を書いたりして過ごしていた。
この時期に交通事故に遭った。道路を横切っているところをはね飛ばされ、気がつくと病院のベッドの上だった。顎の皮膚がえぐれ、右足は骨折していた。東南アジアでは注意していたが、まさか日本で事故に遭うとは思わなかった。
骨折のこともあって退院してからも、ほぼ自宅に籠もりっきりだった。骨折よりも聴力が落ちて戻らなくなった方が心配だった。松葉杖をついて耳鼻科に行くと、「なんでもっと早く来ないのか」と怒られた。もう手遅れだった。
何回も検査を受け、治療薬を飲んだが、どうも治らない見込みが高かった。ショックがじわじわ広がった。
その後、状況はもっと悪化した。1年ほど経って、骨折は治って何とか普通に歩けるようになったのだが、今度はめまいや吐き気が周期的にひどくなった。1日に何度も嘔吐することもあった。
そんな状況でも、私はタイに行きたくなった。飛行機の中でも嘔吐しながら、何とかバンコクにたどり着いたが、最初に訪れたヤワラートのホテルでは、私が相当な不審者に見えたのか宿泊を拒絶された。
聞き取れないのでコミュニケーションがうまくできず、それがフロントの不信感を募らせたようだった。その次の場末の旅社(ゲストハウス)は、フロントのランニングシャツの男がやる気がなくて、私が「1泊」と言うと黙って鍵を投げてきたので何とか宿は取れた。
真夜中に外に出ると、何人かの女性が入口に立っていたので、そのうちのひとりを部屋に連れ込んだが、彼女は私をひどく気味悪がった。「あなたはエイズなのか?」と何度も聞いてきた。
私は「違う」と答えたが、彼女はエイズだと決めつけて逃げていった。
テーブルには、誰かが忘れていったのか、それとも旅社のサービスなのか、古ぼけた手鏡が置いてあった。それで自分の顔を見ると、容態のひどさが自分でも分かった。髪はぼうぼうに伸び、頬はこけ、目の下は真っ青なクマになっていて、どこから見ても100%病人だった。
この体調では、これまでのように東南アジアの暗黒街をうろつくのは無理だ。まず、身体を何とかしなければならなかった。