共に歩む――「頑張れるまで頑張って、みんなで」羽生結弦とコスモポリタニズム(3)

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見知らぬ他者たちに善意を
震災だけでなく集中豪雨にも見舞われた能登地方、羽生結弦と触れ合う人たちの言葉のひとつひとつは、重い。
いまも仮設に住み続ける人々と私たちが同じ地平に立てるのかーーそう思わされてしまうのも無理はないが、立てるのだ。
いや、それが人としての「私たちが他者たちに対して負う義務」なのだ。同じ夢を見ることは、決して不可能なことじゃない。
「頑張れるまで頑張って、みんなで」
羽生結弦のこの言葉こそコスモポリタニズムの原点であり、羽生結弦と能登の人たちの夢と共に、私たちも自分のなしうる限りをしなければならないと改めて気づく、その地平なのだと思う。
現代哲学を代表する思想家のひとり、クワメ・アンソニー・アッピアはコスモポリタニズムについて「見知らぬ他者たちに善意を」と題してこう述べている。
〈世界には、生きて行くために必要な基本的要求をすら満たすことができていない人々がいる現状において、人類は、みなが共同で引き受けるべき責任をいまだ果たせていない〉
果たすべき義務をなすために、自分の犠牲にする必要はない
人類は、みなが共同で引き受けるべき責任をいまだ果たせていないーー厳しい指摘だが事実だと思う。私だってたとえば、ソマリアやハイチで起きている地獄の当事者ではないし、アフガニスタンの女性にかせられた理不尽な不自由になにをしているわけではない。羽生結弦すら自身を「ちっぽけな人間」と言っている。これは謙遜でなく賢明な人だから、懸命な人だからこその言葉だろう。そしてアッピアもまた〈果たすべき義務をなすために、私たちが自分の犠牲にする必要はない〉としている。
アッピアは同じく現代に生きる哲学者のひとり、ロベルト・マンガベイラ・アンガー(ウンガーとも)の主張
〈君は、子どもたちが死にかけている時であってもオペラに出かけて問題ないと言う。しかし、これは、オペラの入場料があれば救うことのできる子どもたちを見捨てたっていい、と言っているもの同然ではないか〉
を引き、むしろこれを批判している。
それどころかこうした誤った強要に対して「抵抗しなければならない」とまで言っている。
私はまったくその通りだと思う。
こんな極端な普遍的利他主義はコスモポリタニズムではない。
宇宙市民とは犠牲が前提のものではないし、自分を不幸にしてまで義務的、あるいは情動的に遂行するものではない。共に歩むことは、共倒れではない。